2020大晦日+
「よかった。来ないかもってドキドキしてた」
ぼくと同じ痩身で、ぼくと同じ趣味の服を着て、ぼくと同じ靴を履いた、ぼくと同じ空色の髪に真っ赤な瞳をした人間。そんなやつが、充血した目でぼくを見て、ぼくと同じ声でそう言った。
感染症の流行のために帰省を規制された今、抜け殻となった夜の駅のホームにぼくはいた。彼に呼ばれたからだ。今朝の怪電話がそうだった。
ぼくは黙ったまま、待ち合わせの場所に改札口より内側を指定するこいつは頭がおかしいんじゃないかと思っていた。だから無意識のうちにすごく嫌そうな顔をしていたけれど、彼は何も気にならないようで、ぼくの顔をじろじろ見ながら勝手に続けた。
「なんか不思議だよ。たぶんお前って、キリウ君になるはずじゃなかった人が、何かの間違いでキリウ君になってるっぽい。どうする? このまま俺を倒してお前が来年のキリウ君になる?」
全く意味がわからないので反論しようとするも、ぼくは自分の名前が思い出せないことに戸惑ってしまい、できなかった。(不思議と『キリウ君』が人名であり、自分と関わりが深いことには気づいていた。)
キリウ君――キリウ君というのは倒せるものなんだな、とぼくは壊れた人形のように感心していた。俺を倒して来年のキリウ君にということは彼が今年のキリウ君なのかもしれないが、深読みしすぎだったら恥ずかしいので了承しかねた。仮にそうならばそこに自分が抜擢されるのはどういうことだろうか。
「どうもこうもないよ。理由なんか無い。俺の代わりは誰でもできるってことでしょう」
その言葉に、ぼくは職場で上司から言われたことを思い出して嫌な気持ちになった。誰でも代わりが務まるならぼくがやる必要だって無いし、何より、ぼくがキリウ君の代わりになったらぼくの代わりがいない。
ぼくの代わりだって誰でもできると言うようならブン殴ってやるところだった。ぼくらの他に人っこ一人いない、ぼくらの話し声の他に雑音一つ無い異常な空間で、据わったままの目をした彼が不気味に笑った。
「やりたくないならいいよ。まじめな話、キリウ君なんて実在しないし」
何を拗ねてるんだと思った。
率直に。ギラついた瞳に気圧されそうになったけれど、それよりもなぜかぼくの中には怒りが湧き出してきていた。
おかしいんだ。こいつには昔からこういうところがあって、それは直した方がいいってずっと思ってた。ぼくが指摘してやればよかったんだ。でも実在ってなんだろうな、カステラにザラメを敷くかどうかのほうがずっとずっと大切なのに。
よほどぼくが機嫌を悪くしたように見えたのか、目の前のキリウ君が僅かに身を引いて神妙そうな雰囲気になったのが分かった。
「ごめん。あんたのことはいいんだよ。本当は、俺が実在しないって風潮がムカつくだけで」
そう言って、見せたくてたまらないといった素振りでキリウ君が見せてきたスマートフォンの画面には、何かのアンケートの結果が円グラフで表示されていた。
それは設問『キリウ君は実在すると思いますか?』に対して『やや実在しないと思う』『実在しないと思う』を選択した回答者の割合が83パーセントを占めるというものだった。けれどそんなことより、ぼくは3Dの円グラフに先祖を殺されているので他の感想が出てこず、怒りが増したばかりだった。
ぼくは長いため息をついて精一杯感情を押し殺し、ようやく口を開いた。
「あんたが実在しないなら、じゃあ、俺は誰と喋ってるのさ」
冷たい蛍光灯の光の下で、キリウ君が一瞬すごく嫌な笑みを浮かべた。一瞬だけれど、想像できる限りで一番嫌な笑顔だった。
「実在はしないけど存在はしてるんだよ。それに、実在しないものと話しちゃいけないルールは無いじゃん」
「あんたは、俺にキリウ君になってほしいの?」
頼んでないよ。
と言おうとしたキリウ君に向かってぼくは「なってほしくないなら帰るよ」とぶつけた。
帰れると思ってるのか?
と言おうとしたキリウ君から目を逸らしてぼくは「めんどくさ」と吐き捨てた。
彼が戸惑ったみたいにこちらに声をかけてこようとした瞬間、ぼくは更にわざと言葉を被せた。
「帰りたい。キリウ君とかどうでもいい」
視界の外でキリウ君が固まったのが分かった。
実際のところ、言葉に反してぼくはこの出来事をそこまでどうでもいいだなんて思ってはいなかった。むしろこれからどちらかの家に行って、お茶でも飲みながらゆっくり話し合うべきだと考えていた。互いの将来に関わる話だからだ。けれどあまりにもキリウ君が脳みそパープリンだから、ブチ切れそうになってしまって。
「俺だって帰りたいよ? 誰も望んでなんかない、でも知らない電波が命令する、年の瀬は愛を知らない子供のふりをして過ごしなさいって――」
「だからなんなの?」
「俺じゃない。あんたでもない。キリウ君は実在しない……、だけどここにいる、いたい、いなきゃいけない」
急にしどろもどろになったキリウ君が気持ち悪くて、かわいそうで、ぼくは笑ってしまった。気に障ったのか詰め寄ってこようとしたキリウ君を手で制して、ぼくは声を張り上げた。
「使命感でやったって続かねーよっ」
「続いてんだよ! 俺がそうだよ、みんなそうだったのに」
「ていうかさ、去年の大晦日、キリウ君1とキリウ君3のどっちが勝ったの?」
自分がそれを問うたことに気づいた瞬間、あっ、とぼくは思った。
自分がそれを問われたことに気づいた瞬間、彼の泣き出しそうだった顔が微かに綻んだのかもしれなかった。
「どっちだっていいじゃん。だって、お前が今年のキリウ君なんだから」
そう呟いて両腕を広げて天を仰いだキリウ君を、ぼくは宗教画で見たことがあった。そして、誰かにカチ割られるはずだった鏡餅の塊がホームの薄い屋根を突き破って落ちてきて、キリウ君の頭をカチ割った。
呆気なく倒れたキリウ君を見下ろしながら、すぐにぼくは理解した。どれだけ長い時間ここにいたのか、とっくに年が明けていたのだ。そしてもうひとつ、これが孤独なんだってこと。
喪は明けない。心のどこかに実在しない弟がいる。目の前では実在しないキリウ君が頭から血を流して死んでいる。始発列車が出る頃、ぼくは実在しないキリウ君になる。けれどきっとこの街にいる誰も実在してはいない。根拠も無くそう確信していた。
だったら少しは慰めになるんじゃないかとぼくは思った。ここにいない誰かにとっても。