ロッカーの中に――。
見るべきか、見ざるべきか、そういう問題ではないのだ。自分ひとりが見ようが見なかろうが『それ』は確かに存在する。たとえこの世の誰ひとり見ていなくなって望んでいなくたって、それがそこに在ることに変わりはないのだろう。
ロッカーの扉にかけたままの手がひどく場違いに感じたけれど、他にやり場も無かった。立ち去ろうにも、足元に広がる血の海が靴底をべっとりと捕まえていた。閉じたままの扉の下から溢れるそれが意味するところは、その向こう側が尋常ならざるなんかなんかなんだっていうこと。
意を決してというよりは、諦めの気持ちで指に力を込める。
軽い音を立てて扉が開き、そこにそれは確かに存在した。
更衣室のロッカーの中に押し込められていたのは自分の死体だった。自分と同じ痩身で、自分と同じ趣味の服を着て、自分と同じ靴を履いた、空色の髪をした人間の死体のような血まみれの何か。そんなものを、充血した自分の目が見降ろしていた。
片手に握ったままのスマートフォンのカメラを起動しようとして、しかしやめた。どうせ何も写りはしない。なぜならこの死体は実在しないから。これは自分の頭の中にだけ存在する死体であり、凝視しようが目を逸らそうが確かに存在して、ただでさえ細い神経をすり減らす。
ここ一か月ほど、同じようなことが続きっぱなしだった。
原因は本当に分からない。ストレスは図々しいくらい無いし、人間関係にも不満は無いし、最近はメタルを聴いているし、今世で輪廻を脱出できるらしいとカウンセラーからも言われているのに。何か悪いことをしたかと自問自答もしたけれど、悪いことをしたから悪いことが起きるという発想自体がけっこう邪悪であることに気付いただけだった。
何の感慨も無く手を伸ばし、死体の頭からキャップを脱がして自分の頭にかぶる。目下の死体のカチ割られた頭と痛み出した自分の右のこめかみとに、否応なくおのれの生を実感したりなんかしない。そういうセンチメンタルに浸っていい年頃じゃない。
だいたい自分の死体とは言うけれど、本当のところは納得していないのだ。なぜなら自分はこんな真っ青な髪の毛じゃないから。
だとか心の中で否定したところで、こめかみを押さえた手の下のざらつく髪の感触が自分を呼び戻す。ヘアプリントの黒色の下に覆い隠した空色を思い出せと、呼び戻す。
慣れない。
深呼吸をする。不安は感じていなかった。ただただ不愉快だった。深呼吸して、死体の身体をロッカーから引きずり出して、また深呼吸する。乾きかけの血でごわごわになったコートを引っぺがして、袖に腕を通しながら、死体を強かに蹴り退ける。
べしゃりと血だまりに突っ伏したそれを見て、どこかほっとしたのは、自分と同じ顔が見えなくなったからかもしれなかった。それがそこに在ることに変わりはないのに。
ロッカーの中で潰れていた鞄を手に取り、少しだけ軽くなった靴でふらりと歩き出す。何もかも知ったこっちゃない。昨日は深夜ラジオを聴いて過ごしたんだ。今夜も深夜ラジオを聴いて過ごすんだ。