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81.幻覚・幻聴・ハレルーヤ

 キリウ少年がうちに帰るとめちゃくちゃでかい虫がいた。

 タテヨコ高さの全部が自分の立端以上あるそいつが、部屋の真ん中でうごめいてるのを見て、彼は全身から力が抜けるのを感じた。

 ハンコがずれる幻覚のせいで借協に必要な書類を全部提出するのに半日もかかって、通行人がカメをいじめてる幻覚のせいで帰路にこれまたひどく時間がかかって、夜になって、やっとこさ戻ってきてこれだった。

 子供の手のひらくらいの小さいのも床を埋め尽くすほど湧いていたけど、ばかでかいのが気持ち悪すぎて、それどころではなかった。

 もちろんあの虫だ。いつからか電波塔のノイズと入れ替わるように現れた、白くて三角っぽい虫だ。キリウはしばらく電波塔から遠ざかっているというのに、不思議なことに、こいつらの数が減ることは一向になかった。むしろ病的なまでに増えていた。殺しても殺しても湧いてくる。電波塔に近づくから見えていたというわけではないのだろうか!?

 ただでさえ長い触角がキリウの指くらいの太さになってて、そんなものを振り回して辺りをうかがってる様は、本当にサイテーだった。ワイヤーのような触角で引っぱたかれるのが嫌で、思わず彼が手で掴んで止めた瞬間、そいつは殺虫剤をかけられたゴキブリよろしく全身をよじって暴れた。

 実際には三秒もばたついていなかっただろう。けれど広がった翅、細かな毛がびっしり生えた脚、いくら幻覚だとしても、さすがにあんまりの悪夢だ。小さな白い虫の絨毯に崩れ落ちたキリウは、やはり触角でつつかれながら、全てが夢ならいいと思った。

 痴情のもつれで弟が死んでからというものの(痴情のもつれと言いたかっただけ)、もうずっとこんなことばかりで、彼は疲れ切っていた。近頃はひっきりなしに頭痛がして、やっぱり頭のネジを締めてもらったあたりがずきずきする。虫の翅音がやかましくてラジオの音が聴こえないし、ヘッドホンをしたって頭の中から鳴ってくる幻聴なんなら全然ダメだと気付いた日には、死にたくなった。

 ふたつの黒い複眼が、そんなキリウを見つめていた。昆虫の観察なんて思い上がりだな。いつなん時も観察される側にひっくり返る可能性がある。人間観察とかいってる奴も同じだ。セクハラかもしれないが、彼には見つめ返すだけでせいいっぱいハレルーヤ。

 小さな個体だと、紙飛行機を裏返したみたいな外骨格に隠れて分かりにくいが、こいつらはどうやらその下側に、ガと似た腹や胸を持っているようだ。一見すると短い脚も、付け根から目測するとそうでもない。ただ、外骨格が邪魔で上手に伸ばすことができないので、いざ歩いてるとノロマなのかもしれない。

 構造的欠陥、という言霊が出てきたところで、キリウは周囲を飛び回る無数の虫を見やった。

 飛ぶのになぜパチパチなんて音がするのか、暇さえあれば虫を潰してる彼は知っていた。こいつらは勢いよく羽ばたくと、背中で左右の翅同士がぶつかってしまうのだ。だからパチパチという音がするし、実はしばらく飛んでいると翅がもげて落ちてしまう。悪魔とは違うかもしれないが、こいつらもたぶん不良品なのだ……。

 その時、じっと触角だけを動かしていた巨大な虫が、急にキリウに詰め寄ってきた。機械のような脚に、見た目からは想像できないほどの馬鹿力で彼はどつき倒された。どう考えても実在する質量のあるものに身体を踏みつけられ、あまつさえ背中の下で潰れた虫の体液すら感じたので、彼には幻覚というものがなんなのか分からなくなってきた。

 それより何より、食われると思った。

 でもよく観察すると、その虫には口器が見当たらなかった。子供を産むためだけに大人になるガのように。

 同時にふと彼は、首筋の皮膚が引きつるような違和感を覚えた。全身どこもかしこも大量の白い虫にたかられていたが、特にのたのた首を這い回る虫を払って引っかくと、そこから何かがぽろぽろ剥がれ落ちる。

 白くて小さくて、爪を立てても割れない程度に丈夫なそれは、虫の卵だった。

 これが幻覚?

 キリウは顔を覗き込んでくる巨大な虫の頭部に、触角を掠めないよう腕を回した。小刻みに動く首の付け根にそっとしがみつく。そして噛み付いた。比較的柔らかい首の関節の一部を強引に食い破り、できた穴から力任せに片腕を突っ込んで、彼は中身を手当たり次第引っ張り出していった。

 そいつは異常を察して再び暴れ始めたが、傷口から灰白色の体液が流れ出すたび力を失ってゆき、やがてぐにゃりと伸びきって動かなくなった。

 これが幻覚?

 巨大な虫のぬけがらを押しのけながら、キリウはもう何が何だか意味が分からなかった。死にかけの虫に蹴られた胸が痛んだ。

 確かにこいつらはキリウの目の中、いや頭の中に存在しているらしい。ならば愛してみせようホトトギスと決意してみたものの、ますます虫地獄が深まるばかり。正直なところ彼は虫があまり好きではないのだ。

 越えられないものがあった。どこまででも行けなかった。

 どうしようもなさを感じていた。転がっていた黒い箱を手繰り寄せ、彼はそれを頭にかぶって、目を閉じた。

 いち、に、惨、四、五、六、七、八、九、十、

 箱を放った時、大きな白い虫の死骸も、足元を覆い尽くしていた小さいやつらも、そこらじゅうに産み付けられていた卵も、寂しさ以外の全部が消えて綺麗になった部屋にキリウは戻ってきていた。

 五分もすると耐えられなくなって、またどこかへ飛び出して行った。