その夜は、闇がことさら冷たかった。彼の頭の中に散る星空は、本当の曇り空よりずっと綺麗だった。
「やばい」
口の中に溜まった血を飲み込み、弟はうめくように言った。砂埃と擦り傷にまみれた顔を気にする余裕もなく、栄養失調気味の肩と背中を自販機に預けたまま、呆然と目の前の光景を見ていた。
「やったああああああああ、ややややったよオレ、やったやったやったやった」
そこでヨダレを垂らして半狂乱になっているのは、彼の兄である。暴走するアドレナリンで瞳をギラギラ輝かせ、せわしなく動く半開きの口元は、喜びの言葉を探しているようだった。
「兄ちゃん。やばいでし」
「オレが、オレが仕留めたでしっ。ザマーミロあああああ!!」
「兄ちゃん!!」
振り絞るように弟が叫ぶと、兄はハッとしたように振り返った。それから兄は、おのれのケチャップまみれの手を舐めてワンと吠えた。笑ってるんだか驚いてるんだかよく分からないが、次にガッツポーズをきめて、同様に真っ赤なインクのたまった靴先で壁にサインを書き殴り(蹴り)始めた。
シェフの気ぐるいパスタ――。
兄の向こう側には、少女の形をしたケチャップ袋が横向きに倒れていた。手前に落ちているのは、昨晩兄がサイケデリック・トランスにノリながらデコっていた肉切り包丁だろう。
かの容れ物は、学ランの腹に空いた穴からケチャップを漏れ出させ、スカートまでべったりと赤く染めて、ぴくりとも動かなかった。彼女の手のひらの裂け目は、刃を握ったことによるものだろうか。兄が暴れながら安全靴の底で踏みつけていたらしく、その指先もバッキバキに壊れていた。
「兄ちゃん、手足バッキバキにへし折ったるって……それだけって……オレ、こんなの聞いてないでし」
弟の声は震えていた。地面に広がるケ血ャップは、どこか甘い香りを漂わせているような気がした。
「甘い。甘いんだよオメーは。カステラのように甘い」
「コロシはやばいでし」
「このアバズレに何人潰されたと思ってんだよ! 全部ひっくるめたら、ほんとはこんなじゃまったく足りないでし。誰かがやらなきゃいけなかったんだなもし、オレが今夜終わらせるって決めたんぞなもし」
極度に興奮してはいたが、まっすぐなその目は、弟がよく知っている兄のものであった。
歪なサインが完成したらしく、愛すべき愚兄は壁にハイキックを放つことをやめて、それをバックに使い捨てカメラで自分の写真を撮っていた。さらに弟を助け起こしてピースさせ、肩を抱いて同じアングルでシャッターを切った。
いつもと同じ様子の兄を見ているうちに、弟は落ち着いてきたようだ。
「どいてろ。首もってって、目ん玉えぐり出して、あいつらに見せてやる」
「だけどこんな余所者いっぴきのために、兄ちゃんが人殺しになっちゃった」
「何言ってんだ。この街で毎日何人死んでると思ってる。こんなとこで、こんな生活してたら、遅かれ早かれ誰でも人殺しになるんだなもし。それが今だってだけだろ」
兄はニヤつきながら落ちていた包丁を拾い、柄をシャツの裾で拭うと空を斬るように素早く振った。ただのかっこつけだったが、刃を濡らしていた赤い液体がそこらじゅうに飛んで、うわってなった。
二人とも笑った。
「……でも、聞いてた通りだったね。なんてゆうかブチ切れてた」
倒れた少女の青白い頬に着いた飛沫を見つめて、弟が呟く。目元にひどい隈があることと、不意打ちで叩き割ってやった頭の傷を除けば、あまりに穏やかな死に顔だと思った。閉じられた瞼の向こうに、あの対峙した瞬間の狂気に満ちた瞳が、本当に隠れているのだろうか? そう疑うくらいだった。
「こうもラクショーだとは、オレも思わんかった。前やられた時とぜんぜんちがった。あんときゃほんと化け物みたいだったが、今日のは、オレらのことなんざ見てなかったぞなもしね」
「見てなかったのか、見えてなかったのか」
「もっと無欲なやつだと思ってたぞなもし~。ガッカリだなもし」
兄はその化け物だかなんだかの傍らにしゃがみ込み、手のがたつきをごまかすようにゴチャゴチャ言っていた。アドレナリンが切れたようだ。もしかして兄は、これまでさんざやられた恨みを差し引いても、こいつを偶像視してたとこがあるのではないかなと弟は勘繰ったが、彼のボキャブラリでは表現できないので好奇心をこらえて黙っていた。
やがて兄が刃を彼女の首に当て、家庭科の授業で習った通りに左手を猫の手に丸めて添え、肉を引き切ろうとしたその時。
ふいに死体の腕が跳ねるように動き、その手が、兄の包丁を握った手首を乱暴に掴んだ。
赤く濡れた傷だらけの指の、どこにそんな力が残っているのか誰にも分からなかった。死んだように見えていた少女が飛び起きて、兄の不安定な指先から簡単に攫われた凶器が、何の躊躇いもなく元の持ち主へと向けられたのは、一瞬だった。
「あっ」
兄の喉からとても間の抜けたような声が漏れた。
「に、兄ちゃ」
弟は慌ててゾンビみたいなやつから兄を引きはがそうとしたが、突き飛ばされてきた兄ごと後ろに倒れ込んだ。
そして、口をぱくぱくさせて何か言おうとしている義兄弟の腹に、深々と包丁の切っ先が埋まっているのを見てしまった。
て……。
「てンめええええええ!! ブチ殺してやる!!」
溢れ出す熱のままに、弟は包丁の柄を握って叫んだ。
腹に刺さった包丁が勢いよく引き抜かれたので、兄はぐえぇと悲鳴を上げて傷口から大量の血液を噴き出して痙攣していたが、そんなことはどうでもいい。弟の頭の中は、兄の仇をとることでいっぱいだった。
ふいに弟の目には、その気ぐるい女がおぞましい笑みを浮かべたように映った。気のせいかもしれない。だが耐え切れずそいつの顔面を蹴っ倒した。兄がつくった彼女の腹の傷の上を、新たな血でベタベタになった靴のカカトで踏みつけた。
殺すだけでは足りない。歯をぜんぶブチ折ろうと彼は決めた。肩で息をしながら、少女の姿をした化け物の痩躯に乗り上げる。赤黒く固まった髪ごとコンクリートの地面に頭を叩き付け、動かなくなるまで繰り返す。
くすぐったいくらいにざわつく手で、構えた凶器をその口に――。
ねじ込もうとした瞬間、闇の中から飛び出してきた何かに手を叩かれた。
蹴られたのだ。少し離れたところで、吹っ飛んだ包丁が金属質の音を立てて落ちると同時に、弟はその何かの存在に気付いた。
自販機の頼りない照明を浴びてそこに立っていたのは、彼と同い年くらいの、伸びきった空色の髪をした餓鬼だった。
「ジャマするなでし」
興奮冷めやらぬ弟はそいつに文句を言った。しかしそいつはいっさい無言で、でかいゴミでも動かすように少女の上から弟を力づくでどけて、彼に一瞥もくれなかった。そして立端が同じくらいある彼女を軽々と肩に担ぐと、ふっと消えてしまった。
消えたように見えただけで、いつの間にかすぐ横のビルの非常階段の上の方にいた。
「おい!」
弟が呼びかけても、やはりそいつは反応しなかった。
ただ、妙に慣れた手つきで少女の腹の傷を縛って、また……。
どこかへ消えた。