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49.明日明後日のセカイ

 料理に依存性の高い薬物を混ぜていた件について、キリウ少年が時々タカっている店がある。ここ『てるてる食堂』のことだ。身から出た錆のくせに、あの中年の店主はキリウが来ると客商売のプライドに軽蔑が入り混じったような態度をとりやがる。今日もそうだった。

「『しんどけい』て言葉ある?」

 頭に巻かれた包帯をボロボロになった鉛筆の尻でひっかきながら、向かいの席でパズル雑誌に目を落としたままのユコがキリウにそう尋ねてきた。飯時を外れた時間帯ゆえ人影のまばらな店内だが、ユコというやつはこの街のおとなしい連中と同様に、その隙間に滑り込んでさりげなく喋ることができる。ここに何年居てもどこか浮いたところのあるキリウとは違うのだろう。

「ある」

 正確にはユコの頭の上あたりを眺めていた彼は、ひどい寝不足でぼんやりする頭を少し探って答えた。ユコが丸くなった鉛筆の先で何やら紙面に書き込む。

「『みいら』」

「ある」

 今度は即答したが、キリウは相変わらず、ユコの跳ねた髪を数えるように同じあたりで視線を彷徨わせていた。

「『みいら』ってなに」

 三度目の質問でユコが顔を上げて、伸びた前髪を鉛筆を握ったままの手、絆創膏だらけの手で払ったその時、キリウは白い虫を追って天井の隅の方を向いた。

「死体の肝抜いて乾かして包帯で全部巻いたやつ」

「そんなもんあるの?」

「あるの」

 追うことをやめた彼がユコを見ると、彼女は怪訝そうに血の滲んだ包帯を触っていた。キリウは、ミイラに巻いてあるあれは包帯ではないのではないかと今更思ったが、彼もよく知らないので訂正するかどうか迷う。

 ユコの手元にあるそれはクロスワードパズルである。彼女がパズル雑誌を好んで買うという習性にキリウが気付いたのは、わりと最近になってのことだった。電波塔の監視を始めてからの話なので本当に最近なのだ。それ以前のキリウは資金洗浄に忙殺されていたので、実は彼女に関するどうでもいい事実を知る機会があまりなかったのかもしれない。

 彼女はどうやら数字を埋める系のやつはよくできるらしいが、言葉となるととんとダメなようであった。この否が応でも脳みそが浮世から隔絶されてしまう街の中、読書やネットに関心のないユコのような若者がそうなるのは不思議ではない。彼らはものを知らなすぎる。

 もっとも、知ってるという奴だって、本当に知ってるかどうかは怪しいものであったが。

「あ」

「どしたのキリウ」

 ユコが鉛筆の尻を噛み潰そうとしたのを見て、キリウは思わず声を上げた。しかしその理由を上手に説明することができない。鉛筆をいじめるのをやめろと言いたいわけではないのだ。彼はそういう人権意識のある男ではなかった。ただ……。

「鉛筆噛まない方がいいよ」

「ごめん。そうだね」

 それは違う。キリウは彼女が白い虫を口に入れそうになっていたのが嫌だったのだ。ユコにかじられすぎた鉛筆の末端にはいつの間にか小さな白い虫がとまり、触角をのろのろ動かしてボケーとしていた。

 キリウの目の中だけに住む白い虫は少しずつ数が増えてきているようだった。日によって少ないことも多いこともあるし、サイズの大小も不安定だが、トータルで見るとだいたいそう。まだ屋外ではあまり気にならないものの、自宅や店舗に入ると嫌でも目についてしまう。虫にたかられながら飯を食うのは気持ちがいいものではないし、何より友達がそんなものとキスするところも見たくない(どこぞのヤクザならともかく)。

 いや友達か? 友達と呼んでいいのか? ユコがキリウのことをなんだと思えばいいか困っているように、キリウもユコのことをどう思えばいいのか分からないところがあった。友達という言葉は便利で、人と人とのどんな隙間もどうでもよくなる魔法がかかっている。年齢、身長、育ちの違い、信仰、ブタになった経験。

 しかし二人とも、それに甘えられるうちはそれでいいのではないかと思っているところは同じであった。

 キリウは空になった皿の上でじっとしていた白い虫を箸で突き刺した。なんつうノロマ。でもユコには、彼が油の膜で絵を描いているように見えていた。

「ユコよ。話しかけていいか」

「なに」

「俺の弟は他の人には見えないものが見えてる」

「おばけ?」

 白い虫の太い腹に穴が空き、濁った灰白色の体液が漏れ出るさまはサイテー。暴れるというよりは決まった仕草で脚を素早く動かしているだけみたいな機械的な動きも、中身がなくなると止まった。今更そんなもの鑑賞して陰鬱な気分になるキリウではなかったが、この箸の先にぶっ刺さった虫の死骸が目を離せば消えてしまうことは知っている。

「あんま教えてくれなかった」

「仲悪いの?」

 一方、皿に突き立てた箸の先を凝視したまま首を振るキリウのその態度を、ユコは気に留めはしたが気にしてはいなかった。この街で他人がすることの意味を問うのは無意味だ。同時にふと彼女は、どこぞのヤクザが提唱した――キリウの弟は存在自体が妄想――説を思い出したが、それはポイ。

「同じものが見えない人と話すのって大変なんだろうな。見えてるもの以上に信じてるものが違うってわかる。あいつは優しくていいやつ。でも俺はさ、俺が見てるものがぜんぜん信じらんないし、なんていうか好きじゃない。ユコは?」

 ろくでなしの客がいよいよ変なことを言い始めたので、カウンターで自分用のヤクを砕いていた中年の店主は嫌そうな目で二人を見た。キリウに嫌な思い出がある奴は、彼の声が耳に入ると皆そういう顔をする。しかしユコにガンを飛ばされて内職へと戻った。

 ユコは最初、それはキリウ自身の問題であると言おうとした。意味がよくわからなかったからだ。しかし彼女は、キリウがそういった問題を自分に話してくれたことを嬉しくも感じていたため、報いたくて真面目に考えた。

 で、答えた。

「ここってそーいう人たくさんいるじゃない。みんな違うものが見えてて意味わかんない。けど、何見えてたって、ケガしたら赤い血が出る。私はそれしか信じない」

 この時、中年の店主はまた表情筋が引きつるのを感じたが、振り返るのはやめておいたらしい。

「あの、キリウが言ってるのって、そこで青い血が出るってことなのかもしんないけど」

 電波野郎が相変わらずボケーとしていたので彼女は慌てて付け加えたが、心配は無用である。そいつはすぐにふにゃふにゃ笑い始めて箸を置いた。

「なんつうかすごいよね。俺、ユコ大好き、そういうとこ大好き」

 そしてキリウは楽しそうに席を立ち、カウンターの店主に絡みに行った。ふらついた彼がテーブルに当たったせいで、ずっとユコの脚にしがみついていたトランが不機嫌そうにうごめいた。ちょうどキリウの目の中の白い虫は、このトランの骨質の身体と同じようなものでできているのだが、それは特に考慮すべきことではないしキリウ以外の誰も気付くことはない。奇形である以前にそもそもの異形であるトランも、そんな虫と比べれば確実に愛らしい存在であると言えるだろう。

 まー見た目はともかく固い生物だよ、むき出しなうえ擦り傷だらけの脛で動かれると痛いんだよ。でも、これでも所構わずヨダレを垂らす癖はユコが頑張って躾けて直したし、今日もトランはそれを頑張って守っている。ユコはトランを脚から引っぺがし、甲虫の発達した顎のようなその口元から液体が漏れていないことを確認すると、肩に乗せた。そしてクロスワードの残り少ないカギを勘で埋めてゆく。

 ……いいッしょ、それちょーだい。バカやろう、おめーなんかいつもトんでるよなことしか言わねえくせに、もったねえ。なんで俺がやんだよ、そのゴミみてえなの、仕入れより高く捌いてきてやるっていってんだよ。これおめーから買ったやつじゃねえかバカやろう。ウソつけっいつの話だバカ。ああウソだよ、失せろクズがよ、乞食め。あんたがいうかよクズ、じゃあ俺がやるからくれよ。やらん、それより、おめーんとこの……。

 それからキリウと店主は厨房へと消え、おそらく店の裏へ出て何やら言い争っていた。しばらくするとガラス瓶が盛大に割れる音が響き、キリウだけが帰ってきた。

 顔についた店主の返り血を乾ききったおしぼりでぬぐいながら、先程までの眠たげな様子はどこへやら、彼は目をギラギラさせてぼやいた。

「ほんとあいつ、メシがうまい以外にいいとこない。帰ろ、ユコ」

 ところでユコはクイズ雑誌の懸賞ハガキに宛名を書いていた。

「ねえキリウ、ラジコントンボと毛玉取り器と家庭用プラネタリウムだったらどれがいい?」

「け……トンボ!」

 その答えに丸をつけて、筆記用具を学生鞄に放り込んで、彼女も席を立った。

 明日も明後日もこんな日々がずっと続けばいい!