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50.トラントラントラン

 朝とかそういうのはトラン自身にはあまり関係がない。骨精霊は眠らない。ただ、人里に住む稀な骨精霊として言えば、周りの人間たちの活動時間の影響を受けざるをえないところがあった。人間が夜に起きるならばトランも夜に動くであろう。

 とにかく朝だ。前夜にユコの部屋に潜り込み、天井に張り付いて夜通しじっとしていたトランは、起床した家主がご飯をくれたので食った。骨精霊はものを食べなくても平気だが、環境によっては食べることを好む個体もいる。一方この女は気分が悪いとかで自分は液体しか摂らず、台所でもっぱら何かを吐いていた。何を吐いてるのかはよくわからない。

 彼女はガッコーに行くという。トランはついていかないことにした。ガッコーとかいう場所はトランをつつき回すようなガキ共がうじゃうじゃしているので、はぐれた時のことを考えるとぞっとするからだ。トランはこの街のガキ共が好きではなかった。

 街へ出てモサモサ歩いてるうちに昼になる。花屋の店先に並んだ色んな花を片っ端からかじっていると、店のババアにハサミの柄で殴られた。そして農家が花を毒液で育てて食った奴を殺そうとしてる陰謀とか、いかにして世界の輪廻から抜け出すかをとうとうと説かれた。よく分からなかったが、鉢植えの底に産み付けられた害虫の卵を全て食べるまで逃がしてもらえなかった。

 口元が合成用土でグチャグチャになったトランが宙を往く。他の骨精霊がどうだかは知らないが、トランはあまり高いところを飛べない。そこの七階建てのビルの三階の事務所で年上の部下を怒鳴りつけてる上司の様子、そして外でロープにぶら下がって窓の清掃をしてる男が見える程度である。男の周りをうろついてたら洗浄剤をかけられ、スクイジーで殴られたので退散。

 骨精霊は痛みがわからない。目に洗剤が入ってもなんともない。骨精霊は大きな一つ目を持つ。計算されつくした本能的デザインをした生物たちからすれば、とても大きく狙いやすい弱点をさらけ出しているように見えるだろうが、そんなことはどうでもいい。トランも何度か目が潰れたことがあるが、そんなことはどうでもいい。

 洗車してる個人タクシーの運ちゃんの横を歩いていると、ホースで水を浴びせられた。身体がずいぶんきれいになったが、トランはそれに気付かなかったし、ビルの隙間でうろうろしてたらまた汚くなった。

 地べたでねずみをつつき回してたら野良ねこが来た。

『骨野郎じゃないか。そいつはおれの獲物だ』

 トランは自分をトランだと思っていたので、それ以外のあだ名で呼ばれると気が立った。羽を立てて八本脚をコンクリートの地面にぶつけながらぎーぎー鳴いて威嚇すると、ねこも毛を逆立ててにゃーにゃー鳴いてくる。ひとしきり鳴くと飽きた。脚の下にいたねずみが潰れて死んでしまっていたので、トランはそいつを差し出したが、ねこはそっぽ向いた。

 二匹で民家の屋根にのぼって雲がかかった夕日眺めながら世間話する。残飯をくれる時計屋のおやじが死んだこと、ヤクザの縄張りと競合した場合の対処法、外から来た教育委員会のこと……。

 二匹はしばらくの知り合いだが、このねこはトランのことを、どんくさくて変な空飛ぶ飼いねこだと思っていた。なのでトランにねこ社会のことを色々教えてくれたし、代わりにねこの手に負えない高所の作業を手伝わせてきた。

『女は元気か?』

 うなずくと、トランはねこと別れた。

 ずっと大通りを歩いて、気が付くと夜だ。向こうに見える白いがれきの大地は、ここが街の端っこであることを示している。自分の身体と同じ色をしたそれを見ていても、トランは何も感じない。

 引き返す。

 ユコの部屋へ戻ってきた頃にはもう真夜中になっていた。誰かの靴跡のついたその扉にはカギがかかっているが、骨精霊の第六感をはたらかせると不在であることが分かる。靴跡の主であろう隣のアル中投資家に見つかりたくないため、ユコが帰ってくるまで長々と待つ気にもなれず、トランはその場を離れようとした。

 だが骨精霊にはこれでも嗅覚がある。トランが背後から漂う不穏なにおいに振り返ると、あぶない目をしたユコが血の付いた金属パイプを片手に突っ立っていた。

 この街にバカしかいないことはトランにもわかる。