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211.ゼロとイチの夢

 13:25

 某所のジャンク屋の店員が処分に困って横流しした旧型のメモリドライブは、いまどき珍しい忙しなさで、壊れかけのファンをブン回していた。全身に染みついた異臭を振りまいて、呪いから逃れようとするかのように。

 まるで末期のアイドルだな。

 煌々と輝く押し入れの一角を覗き込んで、その植物性妖精は邪悪な笑みを浮かべた。狭い空間を隙間なく覆ったアルミホイルが、冷たい照明をぎらぎら反射して、熱いくらいに輝いていた。

 もちろんメモリドライブはアイドルではないし、ファンをブン回すのは冷却のためだった。アルミホイルを貼っているのも毒電波を遮断するためでなく、押し入れの中で効率良く光量を確保するためだった。

 光量を確保するのは何のためだって? 植物を育てるために決まってる。

 この押し入れは彼の庭であり、檻だった。実際、床に敷かれた銀色のシートの上にはバケツと見紛う大ぶりのビニールポットがずらりと並び、色も形も様々な植物が植わっていた。ただしビニールポットの中央に据えられているのは、どれも電源が入ったままのメモリドライブだった。

 栽培のためにいくらか加工してはいるが、ごく普通のメモリドライブだ。ほとんどは、ケースに開けた無数のパンチ穴から這い出した根が絡みついて、さながら苔玉のようになっていた。伸びきったそうめんみたいな根っこは、電源コードを避けてさらにビニールポットの下部へと降りて、液肥を混ぜた水を貪欲に吸っている。それでもって、ケースの上面を突き破って立派な茎葉を伸ばしているのだから大したもの。

 ――置かれた場所に文句を言わないのって、口が無いからじゃないか?

 ――そうかもしれない。

 この妖精は、デジタルデータを植物化する実験を行っているのだ。実験と言っても、手当たり次第に中古の記録媒体を探してきて、自我の無い種を寄生させて、面白半分に育てているだけだ。それ自体にさしたる動機や目的は無く、単にここ半年ほどの彼のマイブームにすぎなかった。

 要するに遊びだ。暇つぶしにしてはリソースを食い過ぎるが、趣味と言うには不誠実すぎる。それを彼は遊びと呼んだ。

 特に最近育てているこれらはデンジャラスだった。某所のジャンク屋の店員が処分に困っていたので、彼がスイカと交換してあげたメモリドライブだが、何せとにかく臭い。蛆が湧いてそうに臭いし、なんか粉っぽい。

 ファンの排気から甘ったるいような異臭、てか死臭がする。

 このメモリドライブたちは、練炭を焚いて自殺したあと、二週間経って発見された人の部屋に積まれていたものらしい。見つかる時までずっと動いてたから、隅々まで死臭が染みついてしまったようだとジャンク屋が言ってた。

 メモリドライブの中に何が入っていたのかは定かでないが、こうして育った植物たちは、どれも不思議な形をしていた。十個繋がったアザミ、干からびた孫の手にそっくりなコケ、ナナフシに擬態したインゲンの一種。紫色のイネ科の何か。ハーモニ科らしきもの。

 電波トケイソウ。最初っから破裂してるフウセンカズラ。ハイブリッドくっつきむし。

 白トマト。

 ――でかくなりすぎた。

 そろそろ電源から外して、植木鉢に移し替えても良い頃だった。彼は消火器ほどの小さな身を乗り出して、支柱つきのビニールポットをよいしょと引っ張り出す。

 彼が白トマトと呼んだ植物だ。それは今にして思えばトマトではなかったが、茎・葉・花とも真っ白な色をしたトマトだった。透けそうに真っ白で、産毛が無くてツルツルで、小さな花がたくさんついている。そのくせ、ひとつだけ丸々と実った果実は血のように赤い。そんな愛しいトマト。

 けれど彼が畳に広げたチラシの上にビニールポットを置いた時、ふいにその実の表面にヒビが入った。

 あっと思って彼が見ると、みるみるうちにヒビは大きくなり、次の瞬間にはトマトは果肉ごとバックリ二つに裂けていた。咄嗟に添えた彼の手に、ゲル状の中身がぼたぼたとこぼれ落ちる。

 そして、その中に『そいつ』はいた。

「おまえっ」

 彼は思わず口走っていた。

 青臭いトマトの中身にまみれて、彼の手のひらに転がっていたのは、消しゴムくらいの大きさをした白い虫だった。

 少なくとも、彼が見たことのない種類の昆虫だった。そいつは蛾のように太くて柔らかい腹と、甲虫のような硬い翅を持っていた。三角形としか言い表せないシルエットに、とんがった尾部。幅広の翅をばたばたさせて、力無くもがいている姿がたいへん野暮ったい。

 ちょうど、裏返した紙飛行機が虫になったような感じだった。が、どこからそんなものが湧いてきたのだ。

 どう見ても、このトマトの実の中から出てきた。虫が生えてきたのなんて初めてだが、いや、単に部屋に入り込んだこういう虫が、卵を産みつけてただけなのかも。

 ぐっと顔を近づけて、彼はそいつの大きな黒い複眼を覗き込んだ。

「おまえ、ずっと中にいたのか?」

 彼は手の上で震えているそいつを凝視して尋ねた。しかし案の定というか、彼がその身体にまとわりついたゲル状のものを指で拭ってやった途端、そいつは勢いよく羽ばたいて、あっという間に窓の向こうへと逃げ出してしまった。

 ――意味がわからないものを愛せるのは、心に余裕がある証拠だ。あるいは、意味がわからないものしか愛せないほど心に余裕が無いのだ。

 指にべったりと付着した白い粉をちり紙で拭いながら、彼は思う。開いているはずのない、閉まったままの窓を見て、そんなことを思う。

 やたらと固い引き違い窓を蹴るように開けて、彼は数日ぶりにベランダに出た。

 お天気雨のあとの、カラッとしながらも重たい空気のにおいがしていた。白い虫の姿はとうに消えていて、右に行ったのか左に行ったのかすら判らない。あるいは落っこちて、正面の市道を引っ切り無しに行き交う車のタイヤの染みになったのかもしれない。

 ああ、そうかもしれない。もげた白い翅の欠片らしきものが、ベランダの内側に落ちている。

 砂埃にまみれた物干し竿の下で、空っぽのプランターに放りっぱなしのジョウロが真っ黒けになっていた。ここは、某所のでかい市道沿いのマンションの二階だった。見ての通り交通量が多いので、うるさくて空気が汚いのだ。それを除けば駅チカで便利だから、彼も住んでいるのだけれど。

 ひとりベランダの手すりの間から、どこでもないどこかを見つめたまま、彼は何かを確かめるように呟いていた。

「メモリの中で、何の夢を見てたのやら」

 それともこの現実すらも、トマトの実の中で白い虫が見ている夢なのかもしれないが――。

 そんなことはどうでもいい。仮にそうだとして、それで何かが変わるような奴はお呼びでないのだ。彼は白い翅の欠片を拾い上げると、ぼろぼろのサンダルを踏んで部屋の中へと戻っていく。午後は友人とプラネタリウムに行くんだ。

 排ガス混じりの生温かい風が吹き抜けて、刈り込まれた街路樹がかさかさと音を立てた。誰も見ていない真昼の空の真ん中で、青い月の横を、無数の渡りチョウを連れた逆さのクジラが横切っていった。

 

(完)