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210.愛をこめて

 ひとつだけ未練があるとすれば、I.D.のことだった。明日もしも世界が終わるなら、キリウ少年だって本当は、気の置けない友達と叶わない夢でも語らって過ごしたいと思っていた。

 そんな思いは知る由もなく――。

「できたよっっ」

 残されたモノグロの少女I.D.は、どこへともなく宣言した。薄闇の中、その大きな一つ目が、怪しい目薬の作用でギラッギラに輝いていた。

 夜明け前だった。夜目が効く彼女は、明かりも点けずに夜通し仕事に没頭していたのだ。そして今、青ざめた冷たい空に奇怪な影を飛ばして突っ立っていたのは、メイヘムのルーフに設置された送信用アンテナだった。

 枯れ木や寄生植物を思わせる、ぐねぐねした不気味なアンテナだった。冒涜の樹だ。握りっぱなしの工具を片手にそれを仰いだI.D.の眼差しは、夢を見ていた。

 そう、夢だ。このお話が始まって以来の、野望に満ちた素敵な夢だった。

 彼女は無意味な息を吐いた。この程度のものならば、掃除がてら荷室に溜まったジャンクを分解すれば材料を捻出できると思っていたが、案外ゴミが無かったせいで植木鉢を二つ三つ潰さなければならなかった。正確には、キリウがおもちゃにするせいで捨てづらくなってしまったゴミが多かったからだが、そんなことはどうでもいい。

 尊い犠牲を払っただけあり、出来は上々だった。これだけ立派なアンテナがあれば、いまどき不必要なくらいの伝送速度で空の星に願いを届けることができるだろう。届いた願いはエーテルの海を越え、ゾンビと化した星を伝って世界中に響き渡るだろう。

 I.D.には夢があった。モノグロの精神構造の都合上、実存にしか生きられない彼女にとっての夢、すなわち現状に対する不満とそれに対する希望的な展望だ。

 I.D.には不満があった。ラジオのことだ。昔はそれこそ無数のラジオ局が林立していたのに、昨今はどこへ行っても朝から晩まで端から端までサーチしても、入感するのはせいぜい数局。あとはぜんぶ、狂った生き物たちが放つ怪電波だった。汚い電波が減って空が綺麗になったと言う人もいるけれど、それは完全に気のせいだし、仮に本当だったとしても近眼のI.D.には面白くもなんともない。

 違法ラジオ局を運営していたことから誤解されやすいが、I.D.自身はもっぱら聴く側なのだ。確かにささやかな自己主張のつもりで送信機を駆ってはいたが、それは本質ではなかった。曲を流していたのは自分が好きな曲を皆と一緒に聴くためだし、妖精たちを引き入れて番組をやらせたのも、友情を抜きにすれば自分が聴いて面白がるためだった。

 べつに主義主張が無いわけではない。むしろモノグロとしては破格に主張が強い方だった。ただI.D.は、そんなものは葦かラバーダックか話を聞かない友達にでも食わせておけばよいと思っていた。おそらくI.D.は、ほとんどの人が彼女と接して思うよりも、実際には幾分か内向的なのである。

 であるけど、けども、けどなのよ。

 やはり自分がやらねばならない――異様な焦燥感と、使命感にだろうか。一度は叩き折った送信用アンテナを見上げるI.D.は、新たな決意を胸に心底昂っていた。徹夜明けでおかしくなっているだけだと思いたいが、生憎モノグロにそのような生理は無い。

 だから、そう、今朝からずっと考えていたのだ。またラジオ放送を始めるのだと。

 ラジオ番組が少なくてつまらないなら、自分で立ち上げればいいのだ。そしてそれは必ずしも日刊虚言プランターの続きである必要は無く、新しい伝説あるいは与太話の幕開けとなるのだった。

 だから、そう、次の『遊び』はI.D.から提案するつもりだった。ちょうどキリウも星を落とすのにも飽きていたのだろう、近頃は憂いのある顔をしていて虐めてくれと言わんばかりだった。案外お喋りな彼のことだ、もしかしたらマイクの前に座らせたら、自分を解放してくれるかも。

 とっくに集中力が切れて、手が震えまくっていた。モノグロにそんな生理があるかどうかはともかく、事実として震えていた。追加で点眼しようとかざした目薬は、目頭にこぼれ落ちた。今ここにキリウが居たら、どっちが目頭なのとかふざけたことを言うに違いない。彼は目が二つあるくせして、枝葉にばっかり気が行って、いつも大事なことが全然見えてないのだから。

 その様を想像して声も無く口角を上げながら、I.D.はふと気づいた。そういえば、一晩経ってもキリウが戻ってきていないということに。そもそも彼は、どこかに行ったんだっけ? 何をしに行ったんだっけ? いつ帰ってくるんだっけ? ――

 その時、ドン、と下から叩かれたように地面が大きく震えた。

 ――薬中の目眩ではなく、本当に揺れたのだ。メイヘムが軋んだことからそれを確信する暇も無く、立て続けに今度は、空の果てと地の底で何かが砕け散る音が響き渡った。とてつもなく大きくて、取り返しのつかない何かが砕け散る音が。

 それが何なのかは、この地上の誰にも分からなかった。分からないけれど、思わず身を低くしていたI.D.は、再び見上げた空の様子に釘付けになった。星たちが、てんでんばらばらの方向にゆっくりと動き始めていたからだ。

 正確には、支える力を失って落ちていく星たちを下から観測しているからそう見えたのだが、そんなことはどうでもいい。いや、決してどうでもよくないが、少なくともこの瞬間の彼女にとってはどうでもいいことだった。とにかく、まるで玉突き事故を起こしたみたいに、星という星が転げ落ち始めていたのだ。やがてそれらは光の尾を伴って、夜明け前の空を見たこともない炎で彩っていった。

「きっ――」

 少女の口から飛び出しかけた声が、行き場を失くして暫し留まる。恐怖から? 虚しさから? それとも割れた空の隙間から、メモリ上で隣に位置する別のプロセスがちらりと覗いて見えたから?

 違う。全部違う。何もかも、全部がそんなことになってどうでもよくなるくらいに、その星空が美しかったからだ。信仰を持たないモノグロですら、願いをかけたくなるほどに。

「キリウ君キリウ君キリウ君ーーっっ、どこいったのさーー!? 空がやばいことンなってるよーッッ、めっちゃきれーーい!!!! 早く早くっ、もーーーー、終わっちゃうよーーー!?!?」

 ゆえに、堰を切ってあふれ出したのは感動だった。I.D.は声の限りに叫んでいた。いったいどこをほっつき歩いているのやら、こんなに面白い光景をI.D.と一緒に楽しめない友人はド不幸であると、彼女は確信していた。

 それにしてもこのI.D.は、空の星に悪意のあるプログラムを放って小細工をしていたのだから、なんなら自分に過失があるのではと少しくらい不安がってもよいものだろうに。しかし彼女に限って、そのような気持ちは1ビットたりとも湧くはずが無かった。そもそもこんなに面白いことができるなら、とっくにやっていたに決まっているのだ。

「って、あれ? えっ!? なーーー、なに勝手に落ちてるのさ!?!? まだ使うんだよーーッ、ラジオやるんだよーー!?!? ワタシの計画の何を聴いてたんだよっ、こらーーッ――」

 ――だなんて、満点の星空にキレ散らかし始めたI.D.の背後に向かって真っすぐに落ちてきている大ぶりの星もあったのだが、それはそれ。

 割れた空はそのまま真っ二つに破れてゆき、朝焼けと無数の流れ星の向こうに果てしない暗闇を次々と暴き出していた。描画するものの無い、焼け焦げたがれきの光沢さえも無い、本当の暗闇だ。あの破れ目はやがて地平線に到達し、地の底から走ってきた同じ破れ目と出会うだろう。出会ったなら仲良く喧嘩して、そのとき世界はシャボン玉のように弾け飛ぶのだろう。

 こうして、この箱庭のために割り当てられていた動的な領域は、このあと内部時間で199分以内に全て解放された。果たしてそれまでに流れ星が落っこちて、I.D.とメイヘムを含むあらゆるが跡形もなく吹き飛んだのかどうかは定かではない。どちらにせよ、この世界は終わったのだから。