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209.世界の真ん中で

 遙かな眼下に臨むどん底は、いつか夢で見たように煌々と輝く炎に覆われて、地平の果てまで真っ黒焦げだった。あるいはそれは、箱庭が見た悪夢なのかもしれなかった。

 この世界には最初からずっと火がついていた。誰もそうしなくても。

 中央処理場には壁の無い炉があって、地上での役目を終えた無数の命を焼いていた。焼かれて初期化された命は、電波に乗せられてまた地上へと昇っていった。そのようにして使い回される命を、輪廻と呼んだり呼ばなかったりした。

 けれどいつからか、焼いても焼いても消えなくなったものがあった。こそげ落としたそれらが煤のようにこびりついて、最初は中央だけだったのに、気がついたら世界中が真っ黒けになっていた。

 この奇妙な現象は、地上の再生成を挟まずに、内部時間で数万年以上に渡って回し続けた箱庭でのみ発生する。

 それ以外の原因は何も無い。がれきが黒くなるのは、朝に蜘蛛を殺したからではないし、一人一人がベストを尽くさなかったからでも、核実験をしすぎたからでもない。ましてや仕様として定義された寿命でもない。純然たる、箱庭自体のバグだった。

 そして全てが黒に染まった先で待っているのは、ゴーグルのいらない生活と、眠るような終わりだった。不純な黒いがれきは資源に変換されず、中央から送り出された壊れかけの命も定着することなく、ゆっくりと腐り落ちていく。(実際にはその前に、電波塔の調整がされなくなったことにより、地上は最後の乱痴気騒ぎを繰り広げるのだが。)

 だからこんな景色は、この箱庭をつくりし神様だって見たことない。当たり前だ。地上がこんなにも長い間、再生成のオペレーション無しで続いたのは、後にも先にもこの一回だけだからだ。

 ときどき愚かな楽園の住人たちが、蛇に誑かされてブラックホールを作りはじめるだとかして、そのたびにうんざりしながら地上を再生成していたならば、こんなものが表に出てくることは無かったはずなのに。

 ――。

 叫んでいた。燃え上がる世界の底に向かって、真っ逆さまに落ちながら。

 真っ赤な流れ星のキリウ少年は、何も考えてない。考えてなくても解ってる。白い虫の幻になってゼロとイチの海を抜け出して、この空間に自分を再構成した瞬間、キリウは全てを理解していた。正確にはキリウの中の『彼女』の欠片が伝えたのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 どうだっていいのだ。宇宙がどこにあろうと。この世界が人工物であろうと。そこにどうしようもないバグがあろうとも。たとえ自分が実在しない人間だったとしても、キリウにとってはまったく心底どうでもいいことだったのだ。

 ただ、ひとこと何か言いたいと思っていた。

 気持ちを伝えたくてたまらなかった。

 憎んでいた。顔も声も忘れていたのに。大好きだった。名前も知らないのに。弾け飛びそうだった。恨んでいた。形のない無数の命とともに、現世に送り出されたこと。感謝していた。ここに落ちたとき直してくれたこと。でも、溶けた身体をぐちゃぐちゃに引っかき回されたこと。やっぱり、あたたかい手で触れてくれたこと。

 一片のがれきにすぎない、誰も気にかけなかったキリウに愛をくれたこと。

 今すぐ重力崩壊して、何もかもX線で引き裂きたいくらいに想っていた。あなたが助けたりなんかしなければ、助けてくれたから、生まれてきて、死んでもないから、キリウは考えていた。だから生まれてこなければよかったと心の底から願うたび、引っかき回されながら見た悪夢の中の、身を焦がすような痛みに苛まれた。

 ひとことでなんて言えやしない。真っ赤な翅音の中で無数の思念が生まれ続けては、ミリ秒単位で揮発していく。それらのどれひとつとして、キリウ自身は認識すらしていない。翅音だって幻だ。ここに書いてあることは、実際にキリウが考えていることではないのだ。

 キリウは何も考えてない。考えてないけど知っている。内部領域に刻み込んだ、最後のロジックだけを抱き締めて。

 地上を仰ぐこの場所には、ひとつきりの黒い電波塔があった。

 それは地上のどの電波塔よりもはるかに大きくて、天辺は暗黒の空に届くほどで、そこから発される何かはこの箱庭の全てを司っていた。スケジュールされた仕事を順繰りに実行していた。環状線や首塚を含むランダムな地形を生成していた。ダニの種類と数を制御したり、星を輝かせたり、地上に開いたあらゆる穴を塞いでいたりした。

 全ての発信源であり、全ての子守歌でもあった。ビタミンよりも大切で、白い鯨よりも大きくて、神仏よりも尊かった。愛の無い世界で、愛以外の全てを与えてくれた。

 彼女はそこにいた。キリウの中の彼女が指し示したのは、それだった。

 彼女はとっくに心も身体も捨てて、自分自身をシステムに組み込んでしまっていた。放っておけば真っ黒になって死んでいくだけの世界を、一秒でも長く続けるために。

 いつから? がれきの異変が地上に及び始めた頃から、だったと思う。

 最初は一時的な対応のつもりだったのだ。彼女が手ずから対応すれば、焼いても綺麗にならない命を減らして、少しくらい壊れた地上も無理やり動かすことができたのだ。けれど綻びが新たな綻びを産み、加速度的にエラーデータが増えていく中で、それが常態化するのに時間はかからなかった。

 そして今やこの箱庭は、一時として彼女が手を離すことすらできないものに成り果てていた。――

 

 なにが箱庭だ。なにが地上だ。彼女やキリウにとっては、この世界こそが世界なのに。

 

 かわいそうなテスト。彼女が再生成のオペレーションを知らなかったわけじゃなかったってこと、本当に気づいてなかった。

 彼女はこうなることを解っていたうえで、地上の再生成をしなかったのだ。できなかったのだ。彼女が愛した全ての命が生きているのは、今の地上だからだ。本当にそれだけで、彼女はこんなばかみたいな箱庭に自分を捧げて、行けるところまで行ってしまった。

 かわいそうなテスト。あんなに一緒に過ごしたのに、ぼんくらな少女のままだった彼女の心、なんにも理解できてなかった。仮に理解できたとしても、箱庭を存続させるためだけに生まれたテストが、たった一匹の虫けらの願いを叶えてやれる道理なんて無かった。

 どのみち手遅れだった。ここに帰ってきたところで、今のテストの権限では、電波塔の一部になった彼女を引き剥がすことなんてできやしなかった。

 そんな個人のセンチメンタルに話をすり替えようったって!!

 叫んでいた。実際どうだか知らないけれど、絶対にキリウは叫んでいた。

 そこで生まれた者が、永遠に続くようにと願ったら壊れてしまう世界なんて、最初っからダメだった。彼女がそれを認められないから、キリウはここに来た。それはキリウが選んだことではなくて、彼女が選べなかったことでもあって、誰も望んでいなかった。

 だけどキリウの心の電波がここに行けって命令した。放っておいてもいつか終わるものを、今すぐ終わらせたほうがいいって、電波がキリウに命令した。

 ほんとはこんなじゃなくてお話ししたかった。きっとレコード読むのの四半分も伝わらないけど、夢以外のどこかで彼女と話がしたかった。今のキリウは彼女の顔も声も名前も知っていたけれど、知らないでいたかった。たった一度だけ会った時、キリウはぐちゃぐちゃで、彼女は幻だったのだから。

 いなくなった友達をまだ探してますか?

 白い蝶々だった時のこと、覚えてますか?

 今もこの世界のことが好きですか?

 訊きたいことはたくさんあったけれど――――。

 

 

 焼け焦げた赤黒い空を、誰かが見上げたのかもしれなかった。壊れた笛のような、空間を切り裂く甲高い音が響いていたのかもしれなかった。

 重力のままに落ちてきた流れ星は、真っ赤な光を放ちながら、黒い電波塔の中腹に凄まじい勢いで突っ込んだ。電波塔を形作る無数の骨がそれを叩き斬った次の瞬間、その内側から爆発的に広がり出していたのは、真っ黒で歪に枝分かれした木の根にも似た塊だった。

 あらゆる法則を無視したそれは、電波塔を内側から食い破りながらめちゃくちゃに膨れ上がり、やがて彼女を真っ二つに粉砕するまで止まらなかった。

 粉砕したから止まった。

 あとは何も無い。静かなものだ。ごうごうと吹き荒ぶ電波塔の稼働音すら止んだ世界の真ん中で、黒いがれきの地平を覆い尽くした炎だけが、取り残されたように輝き続けていた。