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208.ひとりごと

「ぞっとすることを言うんだな。それは、これから生まれてくる全ての命に対する否定だ。同時に、おまえがこれまで出会ってきた全ての命に対する否定でもある」

 

 耳の後ろで何かが囁いた。それは自分の声のはずなのに、自分の声ではないようだった。どちらにせよ、今更聞きたい話でもなさそうだから、聞き流した。

 キリウ少年は。

 誰もいない夜明け前の駅のプラットフォームにいた。屋根のあるところの方が少ないような、糞田舎の小さな小さな駅で、黄色い線の外側に佇んでいた。

 辺りには、世界の果てまで続く青い闇とガラスのような水面だけが広がっている。プラットフォームの下は水で満ちており、底が見えなかった。夜明け前の青と同じくらい透明で、波ひとつ無い水なのに。

 キリウが自分で沈めたのだ。

 ずっと考えないようにしていた。レコードも読まなかった。あいつに気づかれたら壊されてしまうから、物言わぬvoidの海に沈めて、誰も来られないようにした。だから自分も来られなくなった。がれきにドングリを埋めて忘れるリスみたいに。

 笑っちゃうだろ。それが無ければ血の池の底で自分を見失うくらいに、笑っちゃうだろ。

 キリウはプランクトン一匹住めない透き通った水の向こうに、境界を失って流れ出していく映像を見た。太陽の光を浴びて輝く白いがれきの大地に、どこまでも続きそうな線路が伸びている。その上を並んで歩く、背格好のよく似たふたりの少年の姿があった。

 ひとりはキリウだった。もうひとりはキリウの弟だった。双子の弟だ。キリウには、同じシャーレの上で孵された同い年の弟がいた。名前はジュン。他にもきょうだいは上下にたくさんいたけれど、誰もさほど望まれて生まれてきたわけではなかった。あの街ではみんなそうだった。

「どーする? これから」

 数メートル後ろで――その人がぼやいた。それは自分の声と同じで、自分の声ではないものだった。どちらにせよ、今更見たい顔でもなさそうだから、振り返らなかった。

 キリウ少年は。

 知っていた。薄暗い無人駅で突っ立ってる弟は、一昨日の方を向いた顔にセンチメンタルを滲ませて、右手に瓶詰めの炭酸コーヒーを持っているだろう。知ってるのだ。あのとき、キリウの視線がそれに触れたことに気づいた彼は、探るような目でキリウを見た。

 あれは神様のために置かれていたものだ。彼はキリウと違って、そういうのを手に取ったりできない性分だろうとキリウは勘違いしていたから、認識を改めた。二十年一緒に過ごしても分からないことがあるのだと思った。

 それだけの話だ。それ以上のことは何も無い。無いけれど……。

 ノイズがする。そしたらメトロノームのこと考えてる。キリウの心の中にあったのは、広大なキャベツ畑を区切る十字路の真ん中に置かれていた、深夜のメトロノームの音。

 実際にそれを聴いたのがいつのことかは思い出せない。けれどあの時、気が滅入っていたキリウが、それを蹴飛ばして壊してしまったことは確かだった。誰かの大切なものかもしれないのに。深い学術的な理由からそこに置かれていたのかもしれないのに。あるいはキリウには想像も及ばないくらい不思議で突飛な因果からそこに縛り付けられた、神に等しい何かの成れの果てかもしれないのに。

 自分ひとりの気分で、いとも簡単に壊した。一分間に九十回。その場所では夜空の星以外でただひとつキリウの心の隣にいてくれたのに、キリウはそいつの顔面にトーキックをぶちかました。同時に自分自身にもぶちかましていたのかもしれなかった。

 拷問されて叫ぶのは、救われたいからじゃなくて、答えを持っていないからだ。誤魔化してでも走ったし、立ち止まることの方が怖いから立ち止まれなかった。ただ生きて、他のものを踏み躙ってでも生きていた。ときどきイヤになりながら。

「百歩譲って生まれ変わりを信じて、来世に賭けてみる?」

「……い」

 キリウが無意識に声を発した時、ジュンの愛想笑いが消えた。

「ごめん、なさい」

 ありもしない世界の果てを見つめたまま、ポンコツのように繰り返したキリウの後ろで、ジュンは代わりに鼻で笑った。

「なんだよ。怖くなった?」

「ごめんなさい。ごめんなさい、みんな、全部」

 何回繰り返しても、それが何の意味の無い言葉であることは変わらなかった。なんならどうして謝っているのか、何に謝っているのかすら分からないのかもしれなかった。それでもなぜか、キリウは繰り返さずにはおれなかった。

 射し始めた太陽の光が、水面にキリウの影を薄く落としていた。いつの間にか、その傍らにはもうひとつの影があった。ジュンがキリウのすぐ近くに立っている。彼はぽつりとキリウを諭した。

「振り返るなよ。こんなとこでやめたって戻れやしない。ゼロとイチに還元されて、どこにもいなくなるだけ」

 レコードに無いその言葉は、彼が決して彼ではないことをキリウに思わせた。当たり前だ。心の中の人が、その当人であるはずがない。本当のミッチェル君が小人ではないように、キリウの弟がこんなところで油を売ってるはずもない。

「俺、やばいことしようとしてる。誰にもこんなこと、話してないのに」

 キリウは言い訳をしていた。メトロノームを蹴り壊した時から、何も変わっていない自分を認めたくなくて。言い訳をしながら、暗い水底の向こうに小さなオレンジ色の光を見ていた。

 キリウの影は崩れ落ちそうになっていて、けれど今それに身を任せたら全部崩れ落ちてしまうから、棒のように突っ立っている。ジュンの影は、そんなキリウをせせら笑う。

「話したって話さなくたって同じだよ。自己中のくせに、いきなし日和ってんの」

 ぼくらは悪魔だろ。この世界に仇為す、悪魔。

 そう続けた彼の言葉は、それを望むか望まないかに関わらず、キリウに内在するものでしかないのだ。そんなことは、カッパに教わって知っていたはずなのに。

 本当のレコードの中のジュンは、見れば見るほどガタガタだった。ところどころ欠損して虫食いになっており、明らかに食い違って前後関係が破綻していたり、強引に書き換えられたように見える箇所もあった。

 それらが――(実際にはジュンが自らの意思で書き換え、時に深夜のテンションで消し潰した)――どうしてそうなってしまったのかなんて、少なくともキリウには一生わからない。この世界の誰にもわかるはずがない。わからないけれど、キリウの中の借り物の知識が、遺されたデータから否応にも安らかではない何かを想像してしまう。

 どちらにせよ、今更知りたい話でもなさそうだから、目を背けた。どうせもうすぐ、何もかも関係無くなるのだから。

 そう開き直ったとき、ふいに生温かい風が吹いた。

「もういいんだよ。ぜんぶ、電波が命令したことなんだから」

 ジュンの声は幾分か優しくなっていた。違う。ここにいる彼は解ってるはずなのだ。キリウが言い訳をする心理も。なんのかんの言って、ここでやめる気などさらさら無いことも。

 後ろに立ったジュンの手が、キリウの後頭部にインパクトドライバーの先端を押し付ける。どっかの誰かの『権限』を使ってコンテキストをジュンに切り替えれば、キリウはジュンと同じ景色を見るだろう。その視界に巣食うものさえも、彼の赤い瞳を通じて見ることができるだろう。

 けれどキリウはそれをしたくなかった。仮にできたとして、それだけはしたくないと願っていたし、それをして自分と弟との間の何かが解決するくらいなら、死んだ方がよいのだと思っていた。

 そんな気も知らないで、ジュンはいつも勝手なことばかりほざく。きっと同じくらい、別のところで同じような感情を、彼も抱いていたと思う。

「さよなら、キリウ。楽しかったよ」

 そしてその言葉を返されるべき人間は、永遠にどこにもいない。

「待って――」

「レッツゴー!!!」

 込み上げる気持ちがキリウの口をついて出るよりも僅かに早く、めっぽうハイテンションに叫んだジュンの手が、キリウの頭にネジを撃ち込んでいた。

 振り返ろうとした脚がもつれて、掴もうとしたキリウの指は宙を掻く。がれきのせいで傷だらけの靴がプラットフォームから離れた瞬間、突風とともにキリウ以外の全ては無数の白い虫になって、爆発して飛び散った。

 朝焼けも駅も水面もジュンも、何もかも風と翅音の中に呑まれて消えていった。それは翅の欠片なのか、あるいは白い花弁か、ただの落書きのようにも見えた。

 どこかに置き忘れてきたはずの激しい感情が、声にならない声が叫んでいた。叫びながら、白い渦の真ん中を抜けて、落ちる先は暗闇だった。そのどん底に、小さな炎が見えた。オレンジ色の光に引き寄せられて、どこまでも闇の中を落ちていく。それしか知らない虫のように。

 ――こんな気持ちになるのなら、生まれてこなければよかった。誰も生まれてこなければよかったのだ。