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207.アウト・オブ・バウンズ

 がれきの下には何がある。

 何も無い。あえて言葉にするなら、ゼロとイチのように原始的な何かが渦を巻いているのだ。

 ――。

 風の音を忘れて久しい。今はメイヘムのカーオーディオの微かな重低音を、感覚が無くなった靴の裏で聴いている。恥知らずで暴力的で無反省なその音が、キリウ少年は大好きだった。

 黒いがれきの荒野の真ん中に、広くて深い穴があいていた。嘘そのものの世界で、嘘みたいなその穴を、彼の真っ赤な瞳が覗き込んでいた。

 星が落ちたのだ。キリウが落とした星が地面にぶつかってできたそれは、キリウでなければ跳び越えられない程度のなんでか直径に比べて異様に深い縦穴の形状をしていた。ちょうど水に浮かべた布の真ん中にガラス玉を置いたように、どこまでも沈み込んでいって、見えなくなってしまいそうな暗い穴だった。

 いったい何がどうなってそうなるのかだなんて、楽園の住人の知ったことではない。僕らが知っているのは、その先を知る意味が無いし知る気も起こらないし、知りたがる奴の方がバカで暇で無能であるという常識だけだ。それを教えてくれたのは両親ではなく電波塔だった。親の声よりも聴いた電波の歌が、この世に生きる喜び、そして日照権を主張することや火の鳥の養殖をすることの愚かしさを、無意識レベルで教えてくれた。

 教えてくれるはずだった。

 キリウがバカなのは深淵を覗き込んでいるからじゃない。生まれつきだ。この穴の底が見えないのは深淵が見つめ返しているからじゃない。がれきが黒いし陽が傾いているからだ。それを知っているのはキリウだけじゃない。今すぐ街から三人くらい攫ってきてこれを覗き込ませて拷問したら、きっと同じことを言うはずだ。

 言わないのなら、彼らは死にたがりなのだろう。あるいは、まだ彼らはがれきが白いと思っているのだろう。白いがれきの下の夢を見ているくらいなら、昨日と明日のことを考えて不安になりたいのだろう。

 もともとそういう土地だったのか、星が落ちたからそうなったのか、周囲一帯のがれきは融け合ってくっついてアメで固めたようになっていた。星が変化球ぎみに落ちたせいで、穴の内側の壁面は回転に抉られてギザギザしており、見る者にネジ穴を思わせた。まるでこの世界のネジが一本抜けてどっかにいってしまったみたいだ。

 昔見た穴はもう少し様子が違っていた気がする、と過去のキリウは思った。一方で今の彼は、自分を含む他人に解ることなど何も考えておらず、他人かもしれない自分の内部領域にひたすら何かを書き込み続けていた。それは曖昧な意識の中で自分の腕にペンを走らせるのと、似ていないようでよく似ている。

 実は、自分自身の一時領域に対する書き込みはさほど難しくないのだ。これに限っては、特殊な権限も必要無い。その最たるものが思い込みである。

 辺りには、いまだ醒めないオレンジ色の炎をまとって輝いている塊が幾つか転がっていた。青灰色の煙を上げながら音もなく燃え続けるそれらは、夜空の星を形作っていた巨大なフレームの断片だ。キリウはそのうちのリンゴくらいの一つを拾い上げると、無造作に穴の中へと放り投げた。

 それは融け固まったがれきの法面にゴチンとぶつかって、転げるように落ちていった。エーテルの抵抗におどる炎が映し出していった穴の虚ろは、変質したがれきのガラス質のカドが僅かにきらめいた以外は、闇そのものだった。

 そこには暗闇だけがあった。見つめ返すものもいなかった。深淵から見つめ返すアルバイトは、視線が擦れ合うだけで切なさを覚えていた時代の遺物にすぎない。今はただ、穴の底よりもっと深いところから、吹き荒れる嵐の音と巨大な魚の声がしているような気がして……。

 ぽん、と軽い爆発が起こった。いけいけどんどんで闇の中を落っこちていった小さな光が、完全に見えなくなる直前で、ヒューズが焼き切れたように強い光を放って消えたのだ。

 この穴がこれだけの深さを持っていることを、キリウは星を落とした直後から魚群探知の要領で確認済みだった。せっかく穴が開いても、地上をぶち抜けなければ彼の望む結果ではないからだ。けれどI.D.がやたらとハシャぐから、彼はうっかり星を落とすことそのものに価値を見出しかけていた。

 境界外まで届くほどの穴を開けるには、がれきの層が薄いところを狙って星を落とす必要がある。とはいえ近頃の地上は電波の不行き届きでどこもかしこもへたっていたので、それはほとんど問題にはならなかった。どちらかといえば、変な電波を浴びて無敵になったスナイパーに2キロ先から狙撃されたり、電波が弱すぎてキリウの身体が崩れかけたり、I.D.がはっちゃけすぎて星を観測できなくなることの方が問題だったかもしれない。

 I.D.と遊んでいて、キリウは気付いたことがあった。どうやらモノグロという生き物は、電波が薄い日の方が元気なのだ。それどころか、電波が届かないところに居ても自壊しなかった。

 そのわけは、モノグロのルーツが負の領域にあり、本来この象限に存在してはならないはずの生き物である点に由来していたが、そんなことはどうでもいい。キリウが見たところでは、モノグロは自分に必要な全ての情報を常に内部領域に保持しているようだった。だから電波を受信していなくても、あるいは電波にその存在自体を許されなくても、自分の形を忘れて揮発してしまわずに存在し続けることができる。

 なぜ今その話をするのかって?

 ――。

 星が人工物だなんて、屋根の上で有刺鉄線を編んでいた頃に空想したきりのはずなのに。思い出の無いキリウはこれといった感慨も無く、無言で目下の暗闇を覗き込んだままでいた。

 がれきの下には何がある。

 何も無い。あえて言葉にするなら、ゼロとイチのように原始的な何かが渦を巻いているのだ。けれど座標を鵜呑みにするなら、がれきの下のそのまた更に下、地上に電波だけが届く距離に、中央処理場と呼ばれる場所があった。

 そこで働いていたT氏の言葉を借りるなら、キリウのような普通の生き物は、受け取った電波を姿かたちとして映し出すだけの器なのだそうだ。いくらキリウが伝説のカーバンクルでも、境界外に生身で飛び出せば、ほつれた身体がゼロとイチに溶け出して消滅してしまう。

 あの時のあれは――幼いキリウが『彼女』に出会った時のことは、本当に何かの間違いだった。

 あの時、キリウは原形をとどめないほどゼロとイチに分解されながら、偶然にも自分のIDを完全に失う前に中央へと抜け落ちた。何から何までご都合主義の、成り行き任せのつぎはぎだらけの箱庭で、それはもっとも邪悪な乱数のいたずらだった。そんな偶然がもう一度起こらない限り、今度こそキリウは光の届かないメモリの海でバイナリの屑になるだろう。

 なるだろうけどさ。

 キリウは星の欠片で焼け爛れた手を軽く振った。それ自体に何ら意味は無かった。さっき星の欠片を蹴り落とさずに手で放ったのは、単に靴が焼けるのが嫌だったからだ。

 お気づきの方もいらっしゃると思うが、そもそもキリウは主人公気質ではない。しかも、言うほど電波野郎でもない。ゆいいつ電波を受信したかもしれないのは、別段興味も無いのに、なぜか周囲の制止も無視して落ちた星を見に行こうとしたこと。

 それだけだったのかもしれないな。

 それでもまだキリウは、あと少しはキリウでいなければならなかった。

 キリウの内部領域を走り回っていたペンが止まる。基本的には短期記憶に使う領域なので、あまり多量の情報は持てないが、中央に抜けた後でキリウ自身を再構成するのに最低限必要なものさえあれば良いだろう。再構成後にキリウの人格は復元できないだろうが、かまうことはない。ほんとうにあとすこしなんだから。

 ――俺、この仕事が終わったら、布団で寝るんだ。

 その思いがオレンジ色の風に吹き飛ばされると同時に、キリウは軽く地面を蹴って、穴の真ん中へと身を投げた。