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206.I LIKE YOU

 気になることがあった。この『遊び』でキリウ少年が望む結果を得るのと、モノグロの少女I.D.がこれに飽きて別の遊びを要求し始めるのと。どちらが先であるかについてだ。

 後から聞いたところによると、キリウはもしI.D.がこの遊びに飽きたなら、その時点でやめてしまうつもりだったそうだ。それはまぎれもなく彼の弱さだったが、だから何だと言うのだ。彼が意志薄弱なパープリンであることを罵ったところで、妻も娘も帰って来はしない。

 そして七つ目の星を引きずり落とした今日、大はしゃぎのI.D.が指で示した彼方で、地上の真ん中には大穴が開いていた。それは無慈悲なほどに、キリウにとって望ましい結果だった。

 その事象は、彼が想定していたよりずっと少ない試行回数で発生した。通常ならば空中で燃え尽きるはずの星が地面にぶつかるということ自体、星自体の大きさ以外にも、特定の区域内に四葉のクローバーが自生していることを含む複数の条件が重ならなければ起こりえないからだ。I.D.が星の座標だけでなく寸法や形状まで観測できたことは、幸運だったと言える。

 幸運だったのか? この世界の全てにとって、平等に?

 とにかく、それが夕方のことだった。

 気が付くといつも彼は夕暮れの中にいた。幼いころ、夕暮れの中でひまわりのように電波塔を見上げていた時から、どこにも行けないままなのだと彼自身は思っていた。

 オレンジ色の空の下の遠く、数百メートル先で今なお燃えている星の欠片たちは、同じ色の炎をめらめらと上げ続けている。キリウは傍らのI.D.の仕事をぼんやり眺めているようで、眺めていなかった。その実、この果てしない世界でいちど別れた者同士がtミリ秒後にふたたび出会う確率を元に明日の予定を立てていた。

 ドアを開け放たれたメイヘムのカーオーディオは、こんな歌を歌っている。

『ありったけのお弁当箱に 大惨事大惨事 大散財 緑一色 歩道ごと愛で倒すば 魔性が鮫と思え』

 この歌はキリウの耳にはそのように聴こえていた。しかし傍らで同じものを聴いていたI.D.は、ワークベンチの上で植木鉢をいじりながら、深く息を吐いて言った。

「インストも良いよねえ。ハマってきたよ」

 キリウとI.D.に同じものが聴こえているとすれば、このせりふは以下の解釈が可能だ。

 1.彼女はこの歌をスキャットだと思っており、スキャットはインストの範疇だと思っている。
 2.彼女は歌詞が聴き取れない歌が嫌いで、これはインストであると皮肉を言っている。

 実際にはキリウとI.D.には違うものが聴こえていたので、何もかも間違いだった。しかも狂っているのはキリウではなくI.D.の方だった。そもそもヒトとモノグロの聴覚が同じであるわけないが、少なくとも人の声とそれ以外との区別がつくという前提で、今のI.D.には本当に歌が聴こえていなかった。

 正確には、歌を歌と認識できないほどラリっていた。I.D.がラリっているのは、もちろん怪しい目薬のせいだ。キリウはI.D.がそれを切らすと胸が苦しくなる理由を知っていた。キリウはI.D.がめっぽうに優しい理由を知っていた。キリウはI.D.がI.D.になった日のことを知っていた。キリウはこの世界が記録しているほとんど全てを知り得るかもしれなかった。

 彼はレコードを読むことができた。いつから?

「わかってきたんだよ。キリウ君って焼き畑を実践しててさー。勝手に寄り添ってくるくらいなら、言葉なんか要らないんでしょ。ウヘヒヒヒ」

 例に無くデタラメなことを言っているI.D.の手元で、ただでさえ真っ二つに割れていた植木鉢がバラバラに砕け散った。I.D.はイヒヒヒヒと笑い声を上げながら、バラバラになったそれらをボウルに集めてすりこ木で潰し始めた。

 屋外で作業をする時、I.D.は折り畳みのワークベンチだの狛犬だのを広げて彼女の庭を作る。はたから見ると、黒いがれきの上ではその唐突さがおおよそ非現実的で面白かったが、そんなことはどうでもいい。

 彼女はその真ん中で至極上機嫌そうに、タコの骨でできたアンプから流れてくるメロディを鼻歌でなぞっていた。タコには骨なんか無いのにだ。もっとも、そんなことを言ったらモノグロにも鼻は無いし、息もしないし、雌雄の区別も無かった。I.D.の今のフェミニンな風情は、もっぱら遠い昔に友人からレディ扱いをされて味を占めた経験から来るものだとキリウは知っていた。

 彼はレコードを読むことができた。いつから?

 本当は、最果ての街で白いオブジェの形に変えられていた『テスト』に触れた時から、ずっとできたはずだった。けれどキリウがそれを自由に行えるようになったのは、つい最近のことだった。

 なぜならそれはキリウのものではなかったから。その権限も、それらを扱うための知識――たとえば膨大なレコードの中からミッチェル君の名前を調べるだけで数百時間を要さずに済むだけのノウハウも、然るべき者だけが扱わなければならないはずだったから。

 なのにそいつがキリウを消そうとしたから。

 ――。

 もしもそいつに名前が無かったのなら、クソみたいな性格じゃなかったのなら、キリウは自分とそいつの境界が判らなくなって、とっくに消滅していたのかもしれなかった。

 今に始まったことじゃない。かつてキリウががれきの下に落ちたとき、完全に復元されなかったキリウの身体には不安定なままのゼロとイチが残っていた。二百年くらい前、その綻びから『テスト』が入り込んだ。自由に動き回れる身体を欲しがっていた『テスト』は、ヤンデレのミニマリストみたいに、キリウの持ち物を勝手に捨てたり壊したり捨てたりした。そうすれば、たとえIDが同値でもキリウをキリウではなくできるからだ。

 だからキリウはそいつを食い殺してしまった。血の池の底でそいつを八つ裂きにして、丸呑みにしてしまった。

 べつにそれは誰の特別な意思でもない。消えたくないから、死にたくないから、まだ夢を見続けていたいから、そんな尊い理由もありはしない。ただキリウは完全にブチ切れていた。

 ――。

 この出来損ないの箱庭を、気が遠くなるほど長い間メンテナンスし続けていた『テスト』。造物主でもない、共に地上で生きられるわけでもない、この箱庭を生き永らえさせるためだけに設置されたはずのそいつは、最後には箱庭の住人たちに対して憎悪の感情しか抱いていなかった。

 かれが心を持っていた意味など無いのだ。単純な話、かれが出来合いの人間のデータを転用して作られた由来を持つから、たまたまそれが備わっていただけ。

 そしてそのことをかれ自身は知っていた。かれが知っているから、キリウも知っていた。

 だからといってキリウには、そいつに同情する気持ちなど砂粒ほども湧かなかった。

「キリウ君? キリウ君? 太陽はなんで緑色なんだろうねぇ?」

 ハチャメチャになった泡立て器を置いてヘブンリーな面持ちでキリウに尋ねたI.D.は、まるで子供のようだった。当たり前だ。このお話には子供しか出てこないのだ。

「ミントが生えてるから。あのさ、I.D.」

「なるほどキミは笹団子仮面の薄暗い幼年期を知っているんだね。ワタシは何も救えなかったよ」

「I.D.。俺、あっち見てくるから」

 そう言って星が落ちた方を示したキリウの手首を、マジックハンド《竹取物語》が掴んだ。

 ワークベンチ越しにそれを構えているI.D.は、打って変わって背筋をぴんと伸ばしていた。しかしスイカほどもある巨大な眼球は、相変わらずかたかたとあらぬ方向に振れており、一つしかないはずなのに焦点が合っていなかった。

「まだ燃えてるよ。火が消えてから行きたいよ」

 キリウを諭すI.D.の声は気色悪いほど落ち着き払っていたが、実際にはアクセントがはちゃめちゃだった。キリウは音もなく《竹取物語》を振りほどき、月の裏に思いを馳せる。――I.D.は騙されやすいので、街に行くたびにこういう変なガジェットを買ってくる。

「誘ってないし」

 小声でもなく呟いたキリウの前で、I.D.が一瞬白目を剥いた。

 それから彼女はみるみるうちに(一つ目の顔で表現できる中では最も)ショックを受けた表情になって、わざとらしい口調で宣った。

「はっ? そーゆーこと言っちゃうか、キリウ君は??」

 これはこういう芸風であり、相手にすると際限なく調子に乗るので無視してよい。

 I.D.が取り落とした《竹取物語》の柄が、ワークベンチにぶつかって跳ね返って転げ落ちていった。がれきに直接置ける構造をしたワークベンチの足元で、マジックハンドのフレキシブルな可動部が彼女のブーツの甲に乗っていたが、彼女はそれを蹴り払いもしなかった。

 向こう側に停められたメイヘムのバックミラーには、星の欠片に穴をあけてハリガネムシを結んだものが吊るされている。一週間前、三番目に落とした星が地表すれすれでツングースカしたときに、I.D.が拾ってきて作ったものだ。I.D.はひたすら恩着せがましいことを言いながら、人の道理が通じない顔をしながら、キリウが星を落とすたびにひとりで大はしゃぎするのだ。

 血の池の底で魚になってしまって以来、あっちもこっちも壊れまくりのキリウは既にほとんど空っぽになっていたが、I.D.が楽しそうにしていると嬉しかった。彼はI.D.がいなければここまで来なかった。メイヘムで何回撥ねられても、I.D.が新しい思い出をくれたから、キリウはまだキリウのままでいられた。

 キリウのなけなしの感受性が、ブンむくれているI.D.をワークベンチ越しに見つめていた。散らかったワークベンチに上から手をついて、キリウが口答えするのを今か今かと待っている彼女の大きな瞳には、スクラップになりそうな少年が映り込んでいた。まだ明るいのに開き気味の瞳孔。金属色素を打ち込んで、彼女みずから染色したピーコックグリーンの虹彩。血の気の無い、特有の青ざめた白目。

 一部地域の迷信では、モノグロの目をじっと見るのは自分が人間であることを忘れてしまうので良くないと言われている。仮にそれが真実だったとしても、今のキリウは自分が人間であることをとっくに忘れていたので駄目だった。だからキリウは両手でI.D.の頭を掴むと、彼女の灰白色の瞼にそっと唇を寄せた。

 けれどそれが触れた瞬間にI.D.が頭を跳ね上げたので、キリウは彼女の強固な人工睫毛に顔を引っかかれた。

「なになになになにッッ、虫!?!?!?」

 切れた顎に手を当てたキリウの前で、I.D.の手が彼女のでかい目元をばたばた叩き払っていた。まぶたの皮が人間よりもずっと厚くて、皮膚の感覚も鈍いうえにラリっているI.D.には、キリウが何をしたのか判らなかったのだ。あまつさえ、大きな虫がとまったのだと勘違いしていた。

「また変な虫がいたのッッ!?!? どれくらい変な虫??」

「いない」

「キリウ君ってば、虫がすきだからさーーッ!? キリウ君は、キリウ君の頭ン中の虫は好きで好きでしょうがないっっ」

 I.D.はアンテナを振り回しながら何やら喚いていたが、十三秒後には頭を抱えて魂が抜けたように大人しくなった。彼女の酩酊した短期記憶から先程の出来事がぜんぶ揮発するところを見たキリウは、百年ぶりに爪を噛んだが、特に意味は無い。

 この時、キリウは彼自身が頭の中の白い虫たちを好いている可能性を初めて指摘された。本当はそのことをもっとよく考えて、自分を好きになることを恐れずに済むよう努力すべきだったが、あいにく遅すぎた。

 顔の傷からトマトジュースの代わりに黒い汁が滲んでいることに気付いたキリウは、それが付着した指先を襟で拭った。そして暗くなりだした空の下で、鈍く輝き続ける爆心地の方に爪先を向けて言った。

「ありがと。行ってくる」

「早く戻ってきてねえええええ」

 字面に反してまったく抑揚のない声で唱えたI.D.は、それからじたばたと彼女の仕事に戻っていった。キリウが立ち去る時、彼女はメイヘムの荷室からバッテリーを引っ張り出そうとしていて、もうキリウの方を見ることはなかった。すたすたとがれきの上を歩き始めたキリウもまた、それ以上I.D.の方を振り返りはしなかった。

 ハリガネムシの死骸が思うに、キリウはたぶん何も変わらなかった。変わりたいと願わなかったわけではないし、変わらないように頑張ったわけでもなかったが、たぶん本当に何も変わらなかった。それでもまだキリウは生きていた。

 七つ目の星を引きずり落とした日の夕方のことだった。