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205.棺

 思い出せない悪夢があった。

 思い出した。

 でも、頭が割れそうだった。うるさいくらいの耳鳴りがしていた。完全な闇ではないけれど、何も見えないほど薄暗くて、圧し潰されそうに狭かった。金属の板に閉じ込められて、ごみくずに埋め尽くされたその場所で、キリウ少年は死にかけの芋虫のように横たわっていた。

 細い呼吸のたび、生ゴミと錆びた鉄の混ざった悪臭を孕んだ空気が体内に入り込むが、それを追い出す気力も発想も無かった。ただ、湿った身体にまとわりつく夜の冷たさだけがじりじりとした痛みをもって、消え入りそうな意識を手放させはしなかった。

 人間は母親の腹の中から生まれてくるらしい。それはこの場所よりは幾分か良い処かもしれなかった。もっともキリウは、そんな気持ち悪いのは御免だと思っていた。

 帰りたい。今は漠然と願っている。どこに?

 帰りたい。ここ以外のどこかに。

 帰らなければ。

 脚を動かそうとすると、芯まで冷え切っていた神経の一部が蘇り、腕の先からひときわ鈍重な痺れが這い上ってきた。それは脳だけを他人の身体に移し替えた後で、元の身体の膝から下を目の前で叩き潰されたような、ひどく他人事でおぞましい感覚だった。その感覚はキリウの頭の中をぐしゃぐしゃに駆け巡ったあと、中心より少し下で強烈な吐き気に変わって膨れ上がった。

 否応なく跳ね上がったキリウの頭が、すぐそこにあった金属板にぶつかって低い音を立てる。咳き込むこともできないまま、喉の奥から溢れたのは鉄の味がする液体だけだった。鉄を食べたことがあるから本当だ。反射的にばたついた手足の先が、辺りに散乱していたビニール袋や紙くずを掻き、身体のそこらかしこから何か乾いたものが剥がれ落ちる感触がした。

 思い出した。

 耳鳴りの奥の残響はエンジンと油圧モーターの轟音だった。それは幼いころに聴いていた、金色の柏餅の子守歌の裏拍と似ていた。

 キリウはゴミ収集車に放り込まれたのだ。緑色で、カエルの顔がついてて、荷箱がななめっててばかでっかくて、ローラーがついてるやつ。ぐりんぐりん回って大きなゴミを挽き砕く、ローラーのその狭間に。

 だったら、ここはあの世でなければゴミ収集車の荷箱の中だ。身体の下に、生ゴミが詰まった小袋が潰れて弾けたものがある気がするし、あの世にプラスチックゴミがあるのも嫌だから、後者だろう。

 だったら、どうしてキリウはまだ生きているのだ。

 全て夢だったのか。親切心のつもりで、タコ焼き屋の脱法紅しょうがの色が黄色すぎることを遠回しに指摘したことも。そしたら金も夢も身寄りもない流れ者であることがバレた途端に、袋詰めにされて拉致されたことも。タコマフィアにタコパンチで全身を打たれ、千枚通しで散々ひっくり返された挙句、面白半分でローラーに押し込まれたことも。

 だったら、生まれてきたことすら夢だとでも言うのだろうか。本当は、タコって何なのかと尋ねたかっただけなのに。

 暗闇の中で慎重に伸ばした手は、分厚い金属板の縁に触れた。指先でなぞってみると、それはおよそ不自然にべこべこ曲がっているようだった。ところどころ穴が開いて鋭利な断面が剥き出しになっている。この車が壊れていたから、死なずに済んだのかもしれない。

 背筋がいやに冷たいので肩の上から触ると、シャツがずたずたに裂けていた。血が固まっているのか背中じゅうに不可解な異物感があり、肉がやけに引き攣る感じがした。上着は着ていなかった。だって背中からローラーに突っ込むふりをされた時、上着の裾が巻き込まれて、なし崩しに身体ごと行ってしまったから。――

 怖気ともに、キリウの全身が粟立った。

 蹴られたり打たれたりは慣れていた。悪意と悪意でしかない善意に派生する、もっとくだらなくてバカバカしい目に遭ったこともたくさんあった。半分以上は自業自得だから、それ自体は仕方ないと思っていた。けれど殺されそうになって、ほんとうに殺されかけたのは初めてだった。

 怖いのか? 恐怖にとらわれたら歩けなくなる。

 呑まれかけた時、耳鳴りの手前で誰かの話し声が聴こえた。気のせいではなかった。箱の向こう側に、確かに人の気配がしていた。

 そのことに気づいた瞬間、キリウは外に飛び出そうとしていた。助けて欲しかったのだ。身体じゅうが痛くて息が苦しかったし、寒くて脚がもげそうだった。血とゴミにまみれてキレそうだった。暗くて狭いところにひとりでずっといて、怖くて叫びたかった。

 でも、それはできなかった。覆い被さった金属板を蹴り上げようとした足を、キリウは寸前で止める。ここがゴミ収集車の中だとしたら、外にいるのはキリウをここに押し込んだ奴らかもしれないからだ。

 キリウは音を立てないように板の下から這い出し、薄明かりが漏れるローラーの塊の間から、外の様子をそっと覗き見る。外では、二人の男が懐中電灯を手に彼らの足元を照らしていた。

 錆びた鉄のにおい。暗闇に慣れたキリウの目にようやく入り込んだ光景は、夥しい量の赤黒い血で覆われたコンクリートの床だった。そのあちこちに、穴だらけになった人間の死体がいくつも転がっていた。捌いた豚を部屋の真ん中でふりまわしたように、近くの壁の上の方までもべったりと、血と臓物のかけらが飛び散っていた。

 見慣れないものを見てふらついたキリウの手が、荷箱の入り口を塞ぐように積み重なっていたローラーの塊のひとつを突く。とうに支えるものを失っていたそれはゆっくりと倒れてゆき、やがて荷箱の前で死んでいる男の上に落ち、湿り気を含んだ重い音を響かせて血まみれの床を転がってゆく。

 呆然としているキリウの目の前には、真っ青な顔をしてキリウを凝視する二人のタコマフィアの若者の姿があった。なにかとんでもない内ゲバがあって、こいつらが仲間を殺したのだろうか。そう推理したキリウは、彼らがウネウネと口を開く前に荷箱の縁を蹴って跳んでいた。換気のために彼らが開けたであろう窓から、一瞬で夜の闇へと身を投げていた。

 帰らなければ。もつれる脚でアスファルトを駆けながら、キリウはそれだけを願っている。帰って、――事情を話して、早くこの街から逃げ出す算段を立てなければ。