作成日:

200.幼子の夢

「がれきってしょっぱいね」

 彼女のその一言で、コズミックエンジェルは事実上の解散を迎えた。

 文字通りモノを食うことに味を占めたI.D.が、甘美なる血肉と救われたい結末を求めてフェス会場にその身を投じていったのが二時間前。ちょっと見てくるだけと三回も念を押していたけれど、それが永遠の愛をも引き裂くとは露知らず。

 暴力の化身メイヘムは斯くも美しく。それは今、怪獣が爪を研いだみたいに大きく剥げた舗装を跨ぐようにして、静かに眠っていた。街の中央部まで至るその傷跡が、どのようにして刻まれたのかを説明するには尺が足りない。それより黒い砂埃に覆われた車体を、キリウ少年が白い虫の上から、せっせとぼろきれで拭いていた。

 違う世界で生まれたキリウは、毎週末でも欠かさずそれを行っていた。ゴミ溜めと見分けのつかない心を宝物でいっぱいにして、雨の日は家で映画を見る。そこにいるキリウは二枚貝が砂を吐く音に一日中耳を傾けていたり、芋虫の一挙一動に一喜一憂したりする。

 負傷兵を手当てしたぼろきれででも拭いた方がまだマシなくらいに、メイヘムは薄汚れていた。I.D.は視界を確保するためにガラスをきれいにする以外では、車を洗う趣味が無かった。どうせすぐにまた砂まみれになるのにと笑った彼女の顔は、藁で家を作る子豚を見守るオオカミそのものだったが、明日はどっちだろう。

 濁ったバケツの水を換えに近くの公園の水道とを行ったり来たりしてるうち、キリウは何者かの湿っぽい視線に気づいた。

 その主はすぐ近くに居た。見るからに不審な二十代そこらの青年が、血縁関係の無さそうな赤子を抱えて、キリウの方をちらちら伺いながら辺りをうろついていたのだ。

 彼はあまりにも怪しい動きをしていたが、それ以上に我々の注意を引いたのは、その脂っぽい髪を染め上げた鮮やかな空の青だった。そして視線がこすれ合ったとき、前髪から覗いた血のように赤い瞳も。

「めっちゃ似てるし。兄弟かと思った」

 五分後、キリウは噴水に面した花壇の前で、彼の猫背と肩を並べて立っていた。

 その青年は見れば見るほど怪しい風体で、互いの瞳の色が分かったあとは、キリウとほとんど目を合わせようとしなかった。彼は常に他人を見下したような、へらへらした笑みを浮かべていた。そのくせ黒いシャツの襟に少しでも顔を隠したいみたいに、時折肩をすくめる癖があった。

 似てない、色しか合ってないと憤慨しつつも、キリウはなぜか彼が他人のような気がせず、おかしな気持ちになっていた。彼の頭上に浮かぶIDの値はキリウのものと異なっており、他人であることは明白だった。しかしキリウは、周囲から見た自分はこのような感じなのではないかと思うと、不思議とこの青年に自己嫌悪と親近感が入り混じった感情を覚えた。

 青年はキリウが流れ者だと知ると、どこか安心したような顔を見せた。それはキリウも同じで、同時に、この街で何も悪いことをしていなくて良かったと思っていた。そして必然的に、話題は彼の腕の中の赤子へと移っていった。

「この子はねぇ。天使様なんだよ……」

 ぷくぷくした赤子だった。それは泣くでも眠るでもなく、銃の形をしたおもちゃをしゃぶりながら、人形のように宙を見つめている。

「もう三百年も、赤ん坊のまま生きてるんだとさ。街中持ち回りで世話してて、今年は俺んちなの。暇だから大体俺が見てるけど」

 彼の言うことはおそらく本当だった。その赤子は歳のわりにカウンタが進みすぎている。ならばそれはキリウと同じ、永遠の少年か少女か何かであり、一般的には悪魔と呼ばれている存在だった。

 言うに事欠いて天使だって!とキリウが心の中で叫ぶ。キリウは似たような話をどこかで聞いた覚えがあったが、覚えは無かったし、完全に忘れていた。

「悪魔? 悪魔なの?」

 キリウの声だ。キリウは悪魔を悪魔と呼ぶことを好んだ。キリウは自分を悪魔だと思っていたし、出会う悪魔もほとんど全員ろくでなしだった。この赤子だって、大きくなれたなら罪を犯したし、誰かを傷つけたに決まっていると思っていた。

「あのね。冗談でもそーゆーのダメよ」

 しかし青年は窘めるような口調になって、きょとんとしたキリウを横目に見下ろして続けた。

「異様に長命で不気味だというだけで、罪もない子供を悪魔と呼ぶのは邪悪な発想」

「赤ちゃんじゃなかったら? クソ生意気で無反省な餓鬼だったら??」

「すべての前提をひっくり返してまでする仮定の話は生産的じゃない」

 この時、冷静な意見を聞くキリウの心は局地的に陰惨なまでに意地悪だった。キリウは、この赤子が自分の意思で言葉を喋ったり動き回ったりする年頃だったなら、誰も天使なんて呼ばないだろうと思っていた。

 キリウはひどく歪んだ心を持っていた。でも、なぜだ。今、その根本を探ろうとするのは無駄だった。永遠に未熟でどうしようもない人格は放り出されていて、それを形成した思い出のほとんどはキリウの中から消失していた。

「ま、キミは中坊かね。あんまりひねくれてると嫌われる……俺もそうだった」

 へらへら笑いながら言われると、神経を逆撫でされたようで、キリウは頭に血が上るのを感じた。それはひどく久しい感覚で、むすっとしたキリウを見て、青年はまた嗤った。

「ずーっと赤ん坊だけど、何もわからないわけじゃない。この街の人間でも、そこんとこを勘違いしているバカは多い」

 言いながら、彼は軽薄に歪んだ口元をそのままに、暗く沈んだ赤い瞳で腕の中の赤子をじっと見る。獲物を舐めまわす肉食獣の目。容易く支配することができる、弱いものを捕らえたケダモノの目だ。

「色んなこと覚える。俺の名前もすぐに覚えたし、三桁の数字も数えられるようになった。もっと楽しいこともたくさん教えてやる。なっちゃん、このひとは、キリウ君だよ」

「きーゆ」

「ほぉら……」

 小ばかにしたようなクスクス笑いを始めた青年に反応して、赤子は小さな手のひらを思うままに振り上げた。無邪気に太陽を掴もうとする指がこの世の罪を赦すとき、青年はいよいよ即刻通報ものの危険で下卑た笑顔を浮かべて、細くなった声を吐き出した。

「フヒヒ……ははっ……。なっちゃん、かわいいでしょ。女の子って……いいね」

 なんということはない、この青年は恐ろしいほど身振りが怪しくて、口下手なだけなのだ。一人っ子として育ち、部屋にこもり気味でろくな友人もいなかった彼は今、無垢なるものの魂に打ち震えていた。彼がよほど生きづらいようなことがあれば、それは街の方が病んでいるのだろう。

 キリウがそっと彼の横から覗き込むと、赤子は「Nothing personal.」とささやいて、銃の形のおもちゃをキリウの眉間に向けた。

 

 

 誰かの叫び声と、テープが切れる音がした。気が付くとキリウは、メイヘムの運転席で白い虫たちに埋もれて意識を失っていた。

 いったいいつの話なのだろう。つい今しがたのような気もするし、百年以上も前の出来事のようでもあった。ただひとつ確実なのは……。なっちゃんは、あの青年が生まれた頃から当たり前のようにそこに居た。その街の餓鬼はみんな、天使様に祝福されて生まれてきた。子供のころの自分を天使様に預けて、一人残らず大人になっていった。

 周囲で、巨大なものが落ちたような地響きがしていた。それと同時に黒いがれきの地面が強く揺れ、舗装のひび割れは更に大きく広がって、びりびりと嫌な音を断続的に立てている。キリウが外を見ると、人っ子一人いなくなった街の向こう側から、ビルよりも巨大な六本脚を持つ黒い化け物が近づいてきていた。

 こうしてはいられない、はやくI.D.を迎えに行って逃げないと。キリウは挿さりっぱなしのメイヘムのキーを叩いたあと、I.D.の背丈に合わされたシートを何度か引っ張った。回転し始めたエンジンとともに深呼吸して、自分に言い聞かせるように、まじないの言葉を呟いた。

「コズミックエンジェル1号、いきます」

 アクセルが踏まれ、最初にハンドルがひねられたとき、汚れた水の入ったバケツが勢いよくひしゃげて吹っ飛んでいった。