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199.いちごコーヒー

 噂を鵜呑みにしたならば、それは超多重下請け構造を装って、この世ならざる何者かが働き手を求めているのだという。頂点を目指して出かけていった営業のひとりは、記憶を失って遠くの街で発見された。

「電波塔のメンテ?」

 I.D.が心底興味津々に尋ねると、ニット帽の少女は生来の得意げな笑みを浮かべて口を開いた。

「今は出とらんけど、うてのババアが学生ん時分、たま~に出ったらしんよ。とる人少ねんしフクリコーセーなんも無んけど、賃金だけむっちゃいいんて」

「へええー、あれって誰かがメンテしてたんだあ?」

 感嘆しながらドリンクの底をストローでつつきまわすI.D.の横顔は、純情そのものだった。少なくとも、彼女のとなりに座っているキリウ少年にはそう見えただろう。降り積もる白い虫の影に、隠されてしまってさえいなければ。

 屋外の休憩スペースのテーブルの上を、キリウの意識の中の白い虫が這いまわっていた。ミッチェル君がチェリーをかじっていた、瀟洒なガーデンテーブルだった。

「いんや~? ほんはカニカニ詐欺グループのダミイ求人だっか、実際行くと地下で死んぬまで穴掘らされんだっか、どいひい噂ばったらしんね。ほんとっかあしらんよ」

「ん? でも、電波塔ってさー」

 I.D.の血の気の無い白目は、目薬でほんのり薄青に染まっている。空色の花から作られた、まぶたの裏から摂取する夢は、ヒトの目には劇薬だがモノグロにはよく効いた。

 もっとも、モノグロの身体にそんな理屈があるのかどうかは誰にも分からない。それを考案した、I.D.の心の中にだけ在るのかも……。

「キリウ君さ。前に、電波塔のバイトがどーこーって言ってなかったっけ? あれってそれ系だったりする?」

「きみ、やったんの!?」

 このとき、一つと二つの目がいっぺんにキリウの方を見た。紙風船ほどもあるI.D.の巨大な近眼と、ぱっちりした化粧の施された栗色の双眸。キリウは――眠たげな半眼の上半分で過去のレコードを、下半分で現世を見ていたキリウは、とっさに直近のレコードを読み直して答えた。

「やってない。全然違うやつー」あまつさえ嘘だし。

「なんだー」

「だーへーびびった」

 少女が、にわかに乗り出していた身を背もたれにうずめ直して息を吐く。特に落胆した様子はなく、相変わらずキリッとした眉で不敵に笑ったままだったが。

「してから、電波塔の下におるんのそーゆーんと思うてん」

「ややこしくてごめんねぇ」皮肉でも謝罪でもない。

「まあー、昨今電波塔なんに構っちょう余裕は、誰にも無んだろが」

「道楽だわね」

 I.D.は含みのある目でキリウを一瞥した。何かと思ってキリウはI.D.を見返したが、I.D.は見るだけで満足したのか、すぐに視線を戻していた。

 ふとキリウは、自分がどこまでをI.D.に喋ったのかわからなくなった。電波塔の調整のアルバイトの話をしたようだが、キリウは覚えていなかった。他人に脳みそを引っかきまわされたり、過去と現在を同時に視せられながら過ごしているうちに、キリウの認識はずいぶん怪しくなってしまったらしい。

 恥ずかしいことを喋っていなければいいけれど。とキリウが嫌な想像をしたとき、ストローを咥えていた少女がぱっと顔を上げて言った。

「てー、そうろそろ、妹を迎えにいかんと」

 彼女の妹は、生まれて三日目に膝の関節が融けてしまって、自力では歩けないのだ。いつからかこの土地に蔓延する風土病だったが、本当の原因は、近隣の電波塔の一本が異常な設定値で放置されていることにあった。

 この地域だけではない。類似の電波塔の異常は各地で発生していて、そのどれもがメンテナンスが行われていないことによるものだった。街ぐるみで当番制を布いているだとか、信仰の一環で信者が代々調整を行っているとかでない限り、例えば雇用ベースで人員を確保していたところなどは、社会の混乱に伴ってみるみるうちに崩壊していった。

(地上のひとに調整させるなんて、夢物語にすぎなかったのだろうか。)

 けれど、誰かがそれをやっていたから、今の今までがあったのだとしたら。

(とっくに、身の丈に合っていない、無理な世界だったのだろうか。)

「I.D.ちゃん、メーヘム乗せてくれってありがとおなー。いかしてたんよ」

「ワタシもお喋りできて楽しかったよ。元気でね」

「ばいばい。あんたら仲良っくな」

 跳ねるように駆けていく少女に手を振ったI.D.とキリウは、学生鞄を背負った背中が見えなくなるまで彼女を見つめていた。曲がり角の手前でちらりと少女が振り返った時、ふたりが見ていることに気づいた彼女はひときわ大きく跳んで手を振って、満面の笑顔で去っていった。

 手を振るのをやめた時、I.D.は少女と同じくらい爛々とした笑みを浮かべていた。

「へへへへ! たまには、知らない人を乗せてあげてもいいかも。ねえキリウ君、それ飲む?」

 I.D.は見たのは、キリウの前に置いてあるドリンクだった。一口も減っていないそれは、キリウが付き合いで買っただけのもので、底にたまった氷の透明がじんわりと溶け出していた。

 キリウは、人間の身体を煩わしがったテストに変にいじくられてしまって以来、ものが食べられない。しかも書き込み権限の無いやつが、キリウの身体の中の不安定なゼロとイチに乗じて無理に書き換えを行ったせいで、誤って何かを飲み込むと例外を吐いてしまう。

「あげるね」

 キリウがそれを差し出すと、I.D.は子供のように笑って受け取った。

「ありがと。これ、すっごくおいしいよ。甘くて酸っぱくて、あぶらっぽくて苦いよ」

 モノグロの感受性のほとんどは思い込みだったが、まっとうな生き物であった頃の名残のように、味だけは判るらしいから不思議なものだ。