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194.悪夢の底

 ばかなやつ 媚び売ってくれたら聞いてやってもよかったのに

 他人になり替わったって 行きたいとこには行けないのに

 永遠に独りなのに勝手に期待して 生きてる意味が欲しくて自分を捨てることもしなかった

 他人は勝手に捨てるくせに ほんとは彼女のこともどうだっていいんだろ

 この世界に意味なんか無いって言ったのはあんたなのに

 帰って寝たいのはあんたなのに

 この話にろくな結末なんか無いのに

 

 

 キリウ少年は遠くで響く自分の声を聴いている。

 いつか聴いた声。昔からずっと隣で聴いていた声。今は白い翅音の分厚い壁の向こうで、数えきれないほどの虫たちに全身を食いちぎられながら、死に物狂いで喚いてる声。

 キリウ少年の右眼がそれを見ている。一足先に壊れた身体から、嘘みたいに転げ出した右眼が。巨大なトマトから漏れ出した、冷たい酸性の血と臓物に浸りながら。

 自分になり替わろうとしていたモノが、虫たちの白い渦の中で、やぶれた血肉の塊になっていく様を見つめている。

 前世がフナムシでもいいけど、来世があるなんて最悪と思っていた。

 燻り続ける世界に足の踏み場を求めて、煤けた壁にすら白い虫たちがびっしりと群がっていた。蠢く虫の群れと割れた翅の欠片に覆われて、血とトマトの異様に鮮やかな赤以外は、全てが真っ白になっていた。

 あのトマトは、キリウの頭の中から落ちてきた。この虫たちは、トマトの中から出てきた。赤くて青臭い皮の隙間から、うじゃうじゃ湧いてきた。今も湧き出し続けていた。

 それの意味するところが何なのか、全然分からない。意味なんか無いのかもしれない。彼らもキリウの心が映し出しているものにすぎず、それが虫の形をしている理由なんか、考えるだけ無駄なのかもしれない。

 いつ頃からそこにいたのかも覚えていなかった。覚えてないからレコードを引いた。キリウが日陰者街の悪魔だった頃に彼らは現れた。気が付くと彼らは視界を埋め尽くすほどに増えていた。

 彼らはいつもキリウの傍にいて、何を見るにも邪魔をした。邪魔すぎてモノポリーで負けたり、他人の顔を覚えられなかったり、火加減を間違えたこともあった。時に彼らは狂気の中の正気であったり、汚物の中のそうでもない物でもあったりしたけれど、虫だった。

 喋らない、笑わない、生きてるだけの虫。じゃれ合って鱗粉を散らして、黒い複眼が見つめるだけの虫。背中で拍手するたび白い翅は自らを傷つける。ぼろぼろの翅がもげて地面に転がって、踏み潰されるだけの虫。

 キリウは嫌悪感に苛まれながら、ぼんやりと空に絵を描きながら、彼らを潰したり潰さなかったりする。どんなに潰してもあとからあとから出てくる彼らを、踏み躙ったり齧ったり、脆い身体を弄んで粗末にする。

 それとも彼らは、キリウそのものなのかもしれなかった。

 違う、キリウじゃない。いや、キリウだ。

 たぶん、キリウ……

 だけじゃない、のかも。

 だってキリウはこんなに優しくない。キリウの傍になんていてやれない。こんなにフラフラしてて、なんで生きてるのかもわかんないような奴、盗んだタクシーで撥ね飛ばす以外のコミュニケーションが思いつかない。

 

 

 決してデタラメでもないように思えた。『テスト』が言ってたことは。

 誰かにレコードを消されたそいつ、もとい名無しの『テスト』が闇の中で拠り所にしたのは、実在する別のレコードたちだった。自分が関わってきた、時には使い捨てにしてきた無数の命に紐づけられた記憶を頼りに、そいつは永い時間をかけて自分をかき集めた。

 地上にいた頃の彼女のレコードの中にも、そいつが言ってた通りの『テスト』が居た。ああ彼女。キリウは、あの子なんて呼べる仲じゃない。静かに燃える炎のような赤い髪をした、慈悲深い少女の影。

 少女? いや。キリウが見た彼女は……少し違ってた気がする。

 

 

 ――――。

 ザアザアと打ち付けるノイズの翅音の中にキリウはいる。

 真っ赤に染まった無数の首吊り紐から、真っ赤なトマトの中身がとめどなく滴り落ちている。どこまでも広がって、すべての靴を真っ赤にしようとする血だまりの真ん中で、いつかキリウの存在は音もなく沈み込んでゆく。

 鱗粉が浮いた血だまりの下は、底が見えないほどの赤い闇だった。ゆっくりと深いところへ落ちていくキリウの右眼は、翅を失った虫たちの死骸が揺らす水面の光を下から見ていた。見えなくなるまで見つめていた。

 遠くで誰かの悲鳴が聴こえていた。キリウはそれを自分の声だと思った。

 自分の声だと思うと轢きたくなった。

 そのうち訪れた完璧な闇の底もまた赤かった。

 長い長い悲鳴と太陽も凍り付くような時間のあと、赤い闇の底で漂うキリウの鼻先に、虫の死骸よりも大きい何かが降ってきた。芬芬たる血のにおいに包まれたそれは、まだ生温かくて柔らかかった。

 誘われるように、ずるずるりとキリウが裏返りだす。どこが裏返ってるのかなんて分からない。ただただ、闇の中でキリウは少しずつ裏返ってゆく。

 全部が裏返ったとき、キリウはきっと、鋭利な歯を持つ巨大な生き物に変わってしまうだろう。それは目の前を漂うゴミか何かの死体を頭からかじって、噛み砕いていって、あとには骨も残さないだろう。

 その後はがれきと同化しながら七日間で巨大化し、地表を片っ端から呑み込み始めるプランになっているが……。

 そういう生き方もアリかもしれない。