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193.続・ただの悪夢

 ――。

 振り下ろされたレンチの頭が皿ごと吹っ飛ばしたケミカルプリンが、煤けた路地の壁に叩きつけられて飛び散った。何で固められたのかもわからないカスタード味の脳脊髄液は、長い悪夢に鬆が入りだしていた。

 ありえない。その仕組みがわからない。カラメルソースに化けていたキリウ少年は人の姿に戻り、破裂した左目から、どろりと黒い液体が流れ落ちる。けれどそれが破裂したのは、今しがたのことではないような気がしていた。

 じゃあ、

「いつから?」

 違う、キリウじゃない。

 余談だけど、たまにレコーディングした自分の声を聴くと、キリウは自分じゃないみたいでぞわぞわする。不思議と懐かしくて、昔からずっとキリウは隣でそれを聴いていた。今は不気味きわまりないキリウの声が、キリウの姿をしたものが、数メートル離れたところからキリウを見下ろしていた。

「覗いてんじゃねーよ、ひとのレコードを。この変態」

 返事をせずに目元を拭っているキリウの前で、『そいつ』は肩で息をしながら、ポッケから引っ張り出したパーティークラッカーをパンと鳴らした。微かな火薬のにおいが、火の消えた街のにおいがした。この街に火を放ったのは、自己嫌悪で全身ミミズ腫れになった夜中のキリウかもしれなかった。

 七日七晩走り回ったみたいに疲れていた。左目を覆ったままのキリウの指の下で、黒い液体のかたまりがごぼっと零れ出る。

「なにこれ。なんで俺は? 鳴らす? プリンになってんのも意味わからない。何考えてんだかわからない。あの子がおまえの庭園にいるわけも。おまえは……気持ち悪い」

 違う、キリウじゃない。ここに火をつけたのも、そこで何か喋ってるやつもキリウじゃない。

 そいつは、自分がしたことが解らないほどの馬鹿のようだった。たいていキリウにも解らないのだから、他人に解るわけがなかった。手元に絡まった紙テープを引きちぎって、忌々し気に呪いの言葉を吐く、キリウによく似たそいつ。

「ずっと眠っていればよかったのに」

「誕生日?」

 紙テープをかぶって下を向きっぱなしで尋ねたキリウをよそに、そいつは深淵から見つめ返すようなドス黒い目をしていた。誰も見つめてないのにだ。古くなった命の色だ。キリウの目から流れ出しているものと同じ色でもあり、今の世界を覆い尽くしたがれきの光沢の下に隠された色でもあった。

「黙れどさんぴん。八枚に下ろすぞ」

 気色悪いくらいのキリウの声がする。同時にクラッカーの抜け殻が投げ捨てられて、煤だらけの地面に座り込んだままのキリウに、そいつが手にしたレンチの先端が突き付けられる。

 嘘つけ、とキリウは思った。いまさら言わなくたって、そんなものを向けなくたって、そいつは約333ミリ秒毎にキリウを八つ裂きにしようとしていたからだ。今もキリウはそれに抵抗していた。このシーンはキリウの心が映し出しているものにすぎないし、現実に何が起きているのかは誰にも分からない。

 とにかく、そいつはそうやって、端からキリウをばちょんばちょんにしてしまった。ずっと前に世界の果てで出会ったとき、終端記号がずれてたキリウの隙間から入り込んで以来、キリウはちょっとずつそうされてきた。こないだは、アジサイの庭園がプロトンレーザーで更地にされた。カッパも殺しやがって、とキリウは思う。お前が殺したんだよ、とそいつは冷たく言い放つ。実際、レコードの上ではキリウが刺身にしたことになってた。

 違う、キリウじゃない。

 大切なことなのに。キリウは死んだカッパをたくさん知ってるけど、キリウが自分でカッパを殺したことはついぞ無かった。一度だけ、殺したんじゃないかという妄想に憑りつかれて耳から自我が出たこともあったけど、絶対に自分で殺してなどいなかった。仮に殺していたとしたら、それはもうキリウではないし、消えてしまっても構わなかった。

 だったら、誰かが勝手にキリウの大切なものを捨てているのだ。たとえ恋人だろうと、そんなことは物理的に不可能であるにもかかわらず。それなら、捨ててるのはキリウ自身なのだ。

 違う、キリウじゃない。キリウを捨てようとしてるのはキリウじゃない。

「俺になったから、そんなどうしょうもないの?」

 キリウが目元を触りながらそう呟いたとき、薄暗い空の上から無数のてるてる坊主が降ってきた。

 真っ白な布でできた、大きなてるてる坊主たちだった。キリウの立端でロープをぴんとして、ぼよんぼよんと跳ね回ったそれらは、すぐに裾のほうから崩れて、風の中に全部散っていったので最悪だった。後に残されたのは無数の首吊り紐だけ。

 ロープがどこからきたのかとキリウがようやく上を見ると、いつの間にか狭い空は金網で塞がれていた。この路地、既視感があるけど嘘だった。そんなキリウを見て、笑ったやつがいた。

「おまえはっ。自分を見てると、タクシーで轢きたくなるんだね」

 埃でせき込んで言ったそいつは、初めて女を殺した日に見た鏡の中の顔をしていた。頭の高さでわさわさする首吊り紐の下をくぐって歩いてきながら、そいつは不思議と優しい声でキリウに語り掛けてきた。

「もういいでしょ。おまえには、行くとこもやることも無かったんだって。たのしかったね、花火大会。ほんとはずっと昔から、もう帰って寝たいって思ってるのに」

 優しいわけがない。キリウが優しくないのにだ。

 そいつはキリウをてるてる坊主にする気だった。そうすれば空が晴れると思っているからだ。それだけなのに、それはキリウが抱いたこともないくらい強烈で、胸を突き破って全身を飛び散らかしそうに理不尽で、叫んでも叫び足りないような感情の塊だった。祝福しながら憎みながら愛しながら見放しながら、晴れると信じて望みという名の呪いをかけながら、身体に火をつけられながら油虫を潰す冷たい指。どこのレコードにも書かれてない、揮発しないようにそいつ自身が保持し続けている、今ここにいるキリウにしか触れることができない心。きっとキリウの頭に理解できたのが、てるてる坊主と晴天の因果の部分だけだったに違いない。

 違いない。違う。

 違う?

 違……う。ほんとは晴れるなんて――

「寝てていいんだよ。あとは俺がなんとかする」

「だから俺におまえを」

 キリウじゃない。どっちもキリウじゃない!! 黒くべたべたに汚れたキリウの襟首を掴んで掴まれて、引っ張り上げる上げられる。キリウの手がキリウの隙間を探して、キリウの感覚はぢらぢらとちぎれ始める。

「分かってるよな? 俺のレコード見たんなら」

 どす黒い瞳の闇は、虫に言い聞かせるようにキリウを刺していた。刺してない。キリウがキリウの声で囁いている。囁いている。

「再生成がひつようだ。手遅れになるまえに」

「中央に戻らないと」

「いまの地上ってばもうあんなに真っ黒で」

「あの子はひとりぼっちで、よく頑張ってるかもだけど」

「再生成のオペレーションを知らな」

「なんでI.D.を巻き込んだの?」

「赤ペン先生っ!」

 キリウが溶けかけの意識で口を挟んだと同時に、テ……

 そいつはどこからともなく呼び出した巨大な五本の赤ペンで、キリウの全身をぶち抜いていた。

 ぶち抜いてブチ切れた。

「聞けよッ。こっち見ろよっっ!! なんでも俺のせいにしてんなよミジンコが!? おまえが勝手に目えを覚まして、勝手に余計なことをしたからっ!!!! あんな破綻も破綻の権化みたいな毒まんじゅうと遊んでるヒマなんか――」

 そいつのキレかたは紛う方なきキリウの本来のそれであり、キリウのどうしようもない愛の瀬戸際だったが、レンチどこいった、そんなことはどうでもいい。

 どうでもよくない。他者を書き換える強権的な手段を持たない今のそいつにとって、本来なら自分の目的のためにキリウに入り込み、なり替わろうというのは、キリウに『混ざって』しまう危険と常に隣り合わせだったはずなのに、これまでまるで気にかけようともしてこなかったのは、当初のキリウが霊媒体質で傷心の抜け殻同然でコントロールの奪取が容易だったこと、存在の拠り所が無いため自己破壊だけでそれをキープできたこと、キリウ自体が憎むべきエラーデータであることのほかにも、生まれながらに権能を行使する側だったそいつには、人間の感覚からすればすこし無神経で傲慢なところがあったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 どうでもよくない。

 この時、赤インクをぶちまけてがくんと傾いたキリウの頭から、転げ落ちたものがあった。

 正確には、キリウの潰れた左目の下から出てきた。それは真っ黒な粘液にまみれた、キリウの手のひらに隠れるほどの小人だった。

 年端もいかない少年の小人だ。煤けた地面に闇とともに生まれ落ちたかれは、真っ赤なビー玉を両腕に抱えたまま、おっかなびっくり周囲を見回している。あるべき場所に眼球の嵌っていない、空っぽの双眸で。

 キリウはかれに手を伸ばそうとしたが、叶わなかった。とてとてと走って逃げ出そうとしたかれを、キリウじゃないキリウの靴が踏み潰したからだ。ざらざらした声でみっともなく叫び散らしながら、首吊り紐たちに頭をぶつけながら、そいつは何度も何度も小人の死体を踏み潰していた。

「まだ何か隠してんのかよ!? 出せよっ、ぜんぶ、全部、はやく……壊れろ!!」

 ほとばしる自己破壊。

 赤ペンされた方のキリウは突き飛ばされて、埃っぽいバニラの香りがする地面に再び崩れ落ちるとともに、333ミリ秒に一回の八つ裂きをまともに食らってスクラップになった。目の前で上下する、血まみれの靴の下から飛び出した真っ赤なビー玉が、煤まみれの荒れた舗装の上をからから転がってゆく。壊れたキリウの一時領域に、どこかで聞いた言葉がよみがえる。

『どうかゆるしてやってくれ。あの子はキミの赤い眼が欲しかったんだ』

 もう夢か現実かもわからない。生まれた時からずっとそうだったのかもしれない。

 ――。

 

 

 空の遠くで、バツンと何かがちぎれたらしかった。

 唐突に足元に射した影と、頭上で鳴り響いた衝突音、金網に何か大きなものがぶつかったような音に、そいつは我に返って空を見上げた。

 そして二言三言、何やら言ったのかもしれないが、そんなことはどうでもいい。

 どこから来たのか、そこには巨大な赤いトマトが落っこちてきていたからだ。柔らかい肉質をしたそれが、金網に叩きつけられた衝撃でできた夥しい傷の隙間から、異様に赤いどろどろしたものを流出させていた。それでもって、無数の首吊り紐を染めることさえも。