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191.今日は花火大会

 弾切れのI.D.が、メイヘムのルーフの上で弾薬箱のように並んだプランターを一つずつ覗き込んでいたとき、『さわらないで』と書かれた紙切れを見つけた。白い湿った砂の上、他に何も生えてないプランターの真ん中では、まるでそれ自体が植えられてるみたいだった。

 恐ろしく汚くて読みにくいが、キリウ少年の字だった。こんなでもI.D.に読めるよう、丁寧に書かれている方だった。確かキリウが、前に拾ってきた白い植物の実をとっといたから植えたと言ってたやつだと思うが、結局芽が出なかったらしい。

 I.D.は別のプランターから赤い葉っぱを三つ四つ摘み取ると、梯子を蹴って地面に飛び降りた。そして騒がしい暗がりの中、すぐ向こうの川べりで打ち上げ花火を見上げてるキリウが、まだそこにいることを確認した。

 どーんどーんと遠くない音がひっきりなしに鳴り響いている。白い光が引っかき傷だらけにした黒い空を、飽きもせずに見つめているキリウの姿がある。燃え上がっては散ってゆく、大輪のたんぽぽの綿毛がキリウの眼球に根付きだす。キリウの心は綿毛のたんぽぽでいっぱいになった空き地に金属質の炎を放って、アリとキリギリスの目線で大はしゃぎ……。

 今のふたりがいるのは、二つの街を隔てる大きな川のこっち側だった。街の外縁に接した場所だから、誰も轢き殺さずにメイヘムが乗り入れられてるのだ。辺りは花火大会の見物客や、近隣で開かれてる棒付きキャンディーの出店に向かうワニの群れでごった返していた。こんな薄暗い中では、誰もI.D.の眼球が一つしか無いことには気づかない。きっと太陽の下でも、全てを諦めてしまったこの街の子供たちは、ぱぷうぺぷうと鳴いて毒饅頭をねだってくるに違いない。

 最後の花火を空っぽになるまでぶっ放して、この街はおしまいにするって、役所の掲示板に書いてあった。

 いつ頃からかI.D.は、理由は何であれ、住めなくなって放棄された街をいくつも見てきた。それは地盤が完全にブヨブヨになっただとか、変な生き物しか生まれてこなくなっただとか、甘い雨が止まなくなって機械がみんな壊れただとか、様々な要因があった。以前にキリウが言っていた、重力発電所のどうこうとそれらとの関連性はI.D.には判らない。ただそこには、土地の変質に巻き込まれて街ごと消えてしまった者たちも大勢いたのだという、記録に無い事実だけがあった。

 この街だって、建造物が氷のように融け始めてからというものの、川がこんなに広がってしまった。ここだけじゃない。この川の上流には、近傍の路線では有数の大都市があった。市長の「神様どついたれ」のスローガンで建造が始まって以来、雷にバチクソに撃たれた曰く付きの超高層挟み込みニューラルクロックタワーシティビルを含むあの街の全てがこの街の生活用水に流れ込んでいたと判明した頃には、とっくに手遅れだった。

 というのが、ふたりがこの街に来る前に、線路沿いを歩いてきた家族連れから聞いた話だった。I.D.はぼちぼちの好奇心で彼らの話に無い耳を傾けていたけれど、キリウは初めて見るという花火大会が楽しみだったのか、そんなことはどうでもいいのを隠せないようだった。

『下で見たことないんだ。いっつも打ち上げる側か、打ち上げられる側だったから』

 言い分はともかく、にこりともしないのに目を輝かせているキリウを見て、運転席のI.D.は何か良いことをしている気分になっていた。

 ――キリウが空間をぶっ壊した例の事件から、しばらく経っていた。あれから海に行って和三盆を三トンぶちこんだり、周回コストがマイナスになる危険な環状線を攻略するなどしているうちに、キリウは少し殺伐としてきたというか、元気になってきたみたいだった。

 それはもしかすると、暇で暇で仕方なかったI.D.が、キリウに「面白いことして」「面白いこと言って」「なんか面白いこと考えて」と無茶ぶりをしまくったせいかもしれなかった。そのようなハラスメントにハラされ続けたキリウは、新しい遊びを考えなければならないので、だんだん新品のペンで意味のない落書きをしなくなっていったし、めちゃくちゃ適当なことも言わなくなっていっていった。

 ただ、代わりに別の方面で少しおかしくなったところもあったようだ。先日、誤ってメイヘムの内輪差に巻き込まれてケガをしたキリウは、メイヘムを見て急に、なんで車ががれきの上を走ってるのかと言い出した。それだけじゃない。ある朝のこと、彼はI.D.を質問攻めにした。なんでモノグロなのに手と足があるのかとか。どうしてそんなに目が綺麗な色なのかとか。

 ずっと訊いてこなかったから、てっきり興味が無いんだとI.D.は思っていた。

 それともうひとつ、I.D.が興味深いと思ったことがあった。紐無しトゲトゲバンジージャンプをしたあとでキリウが、自分の血に触らない方がいいと言ったことだった。病気持ってるかもとか、寄生虫だらけじゃないかとか。あまりにも今更だし、モノグロにヒトの病気がうつるかもなんて思ってるのがファニーだった。「わかんないけどキミにおいしく食べれるとこなんて無いんじゃないかな」I.D.がそう言うと、キリウは骨が浮いた自分の腕を見て「F1D049F7B893BF8601C66045B801D590」などと宣った。

 ――I.D.の視力では、花火大会もいつか見た空中戦もあまり変わらない。無数の光が弾けて、空がひたすらに燃え落ちてくる、微かに煤けた空気が身体の内側に染みてくる。それだけなのだ。

 埃っぽくなった眼球に目薬を数滴垂らしたあと、I.D.はいつまでもひとりで心に花を咲かせているキリウの元に寄って行った。キリウは街の舗装の端っこに立って、輝く空をひまわりのように仰いでいたが、花火の次弾が装填されるまでの合間合間で、時折身体を払う風な仕草をしていた。

「虫かい?」

 I.D.が尋ねると、キリウは腕で頭を払いながらうなずいた。

 そんなものはいないけど、いるらしいのだ。誰にも言いふらさないことを約束して、白い虫が見えるんだとキリウが打ち明けてくれたのは、つい一昨日のことだった。キミの故郷では白物家電に脚が生えてるのかねと、I.D.が他意無く尋ねただけだったのに。

「疲れ目にはこれでしょ」

 I.D.は片手に握ったままだった目薬を、キリウの前で揺らして見せた。キリウは空が気になる素振りを隠さないまま、少し身を引いてI.D.を窺った。

「俺に差すの?」

「キミは目がおっきいからきっとよく効くよ」

「染みたり、目ん玉破裂したり」

 I.D.が、空いている方の手をキリウの目元に伸ばす。ワニたちを含む周囲の動物たちは皆、涙を流して空を見上げていた。I.D.の手が、キリウだけを輝く空から引きはがした。大輪の曼殊沙華はやがて燃え尽きて、長い長い煙を引いて落ちる燃えカスは、火を点けて打ち上げられたキリウかもしれなかった。

「片っぽだけだよ」

 そう言ったI.D.の手を、どこか恍惚としたままのキリウは払い除けなかった。空を見つめすぎて赤らんだキリウの左眼は、点眼容器の先端から透明な雫が滴り落ちた瞬間、爆発した。