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190.レコード??

 あたしが次に出会った時、彼女は燃えるような赤い髪を持った人間の女の子だった。

 あんなにブチ切れそうな思いで願いをかけたにもかかわらず、あれから僅か3825回目の循環で、彼女は人語を解する生き物に生まれ落ちた。その時の彼女は人間の女の子だった。ヒトに限って言えば2799回目の彼女もヒトだったけど、あいにく人語を解さなかったうえ、生まれてすぐに死んで中央に戻ってきた。

 人語を解するならヒマワリでも良かったのに、思いがけず彼女が双方に意思疎通可能なヒトを選んだのは、不幸なことだった。

 いや、選んだわけがない。仕組み上、何かを選んで生まれることはあり得ない。

 彼女が人間になったことを知ったあたしは、彼女が複雑なことを理解できる年頃になるまで待っていた。欲を言えば分数の割り算ができるのが理想だった。一番怖かったのは、それまでに彼女がこの世界に絶望してしまうことだった。もっとも、幸いにして彼女は当事者意識に恵まれないタイプだったので、そのようなことは夢にもなかったのだけど。

 いざその時が来たとき、あたしはどんな顔をして彼女に会いに行けばよいのかわからなかった。あたしは内部的に人間として設定されてはいたものの、決まったアクターを持ってなくていつも真っ黒だったし、地に足をつけて歩いたこともほとんど無かった。

 悩んだ末、あたしは彼女に会いに行くために、彼女と同い年の少女のアクターを『自分』とした。本当はでかいヘビのほうが良かったけど、人間の姿で会いに行くって言った手前、そうするしかなかった。

 そのようにして、あたしはあたしになった。

 そのようにして、毎週末のお祈りのとき、あたしは彼女のとなりに座った。

 その頃の彼女は手のひらに収まるような小さな虫ではなかったし、走光性も無かった。人見知りで、ぼんやりしてて、明日のことなんか何も考えてない女の子だった。神様を信じてるかどうかも知らないまま、単に慣習でお祈りに来ていて、そのことをどう思うとかも無い、そんな女の子。

 あたしは中央の作業があるから、お祈りには時々しか行けなかったけど、あの頃のことは今でも覚えてる。

 あの祈り場の祭壇の上には、四人の聖者の1/1スケールシリコンモデルが祀られていた。内臓まで再現された特注品で、ときどき腹が開いて中身がずり落ちていた。彼らはかつて五人組だったが、一人が姦淫で打首に処され、後年はその存在自体が無かったことにされていた。――あたしは街の誰も覚えていないその事実を、レコードを読んでただひとり知っていた。あたしがそのことを彼女にだけこっそり教えてあげたとき、彼女は初めて聖者が四人いることに気づいたみたいだった。

 そう、初めて出会った時も、彼女は夢の中で見たとかデタラメ抜かしてあたしを受け入れてくれた。彼女がつかみどころの無い子なのは本当で、のちに尋ねてみたら、この時はほんとうに適当なことを言っただけらしかった。

 わからない。今にして思えば、あたしは最後まで彼女のことがわからなかったのかもしれない。

 お祈りのあとは恒例のコンパがあるので、祈り場はがらんとして誰もいなくなる。あたしと彼女はいつも、そこに居座ってお喋りしてた。最初のうちは、他愛も無いことをしゃべっていたと思う。普通のアクターとしての生活に慣れていなかったあたしは、階段を下りる方法とか、パ行の発音とか、そんな話ばかりしていた気がする。

 けれどいつかあたしは、秘密を共有したがる女の子のように、ずるずると彼女の前で自分の仕事のことを吐き出し始めていた。

 ――あっちもこっちも継ぎ接ぎだらけのガタだらけ。

 いろんなことを話してしまった。この世界の真ん中では、罪人も蝶もカマキリも平等で、液状のゼロとイチの中で完全に混ざり合ってるのだということ。命の洗濯は自動化されていて、放っておけば乾燥からアイロンまで終わってるのだということ。とはいえ地上のバランスを保つために、自分はいつも電波塔のメンテナンスに追われているのだということ。だからここでサボってる間にも、地上はちょっとずつズレてきているのだということ。時には世界を壊すナタデココとか白痴の火の鳥のために、あるいは限界が来るたびに、地上を再生成しなければならないのだということも。

 それなのに、彼女は電波塔がわからないようだった。

 そう、電波塔から程近いこの街から出たことがない彼女には、あの煙突の向こうに見えてる電波塔がわかるはずもなかった。それは正しくて、理想的にすこやかな生き物は、電波塔の存在を視認はすれど真に認識はしない。電波塔の天辺に宇宙の光を見ただとか、電波塔と結婚したいだとかなんて、たとえエーテルが崩壊しても言い出したりはしない。

「神様なの?」

 神様じゃないよ、とあたしは言った。彼女はあたしの話を聞いて、あたしのことを神様だと勘違いしたようだったが、とんでもない。

 実際、大昔のごく一時期のあたしは、それに類するものから指示を受けて作業をしていた。あたしが電波塔の御守を命じられたのも、その頃のことだった。けれどもうずっと、なんとなくたぶん永遠に、そいつからのコンタクトは無かった。無責任にもほどがある。今のあたしは、この箱庭をひとりきりで世話する庭師だった。地上に出たのも数百年ぶりという多忙ぷりだった。

「かわいそう」

 なんでそんなこと言うの!?!?

 自分でも驚くくらい引っくり返った声でそう叫んだ自分を、あたしはしばらく他人事のように見ていた。でもすぐに当事者意識が湧いてきて、椅子から転げ落ちた。彼女がたった一言、そのような同情の言葉を口にして、それが自分と自分の仕事に向けられたものだと理解した瞬間、あたしはなぜか動けなくなった。

 彼女は本当に率直な気持ちを口にしたのだろう。しかしこの時、あたしは初めて、おのれがこの仕事に何かしらの望みを抱いていたことを自覚した。強烈な脱力感に襲われて、立ち上がれなかった。骨格が全部有害なものに変化したかと思った。生き物の身体はこんなにも重いのかと思った。なにぬねのなにぬねのと繰り返すあたしを見ても、彼女は表情を変えなかった。それが虫だった頃の名残なのかは、あたしには判らなかったけど。

「わたし手伝うよ」

 次に彼女が言った時、その意味するところが解らなかったあたしは、ポンコツのように顔を上げた。彼女の炎のような髪と同じ色をした瞳が、目の前のあたしをじっと見ていた。

「てすちゃんがひとりで直すの、かわいそう。わたしも手伝うよ」

 なんてことを言い出すんだこの虫は、と思った。あたしが騒いだから残業してた祈祷師が様子を見に来たけど、それどころではなかったから魔法で追っ払、おうとしたけどダメだ。今の自分はただの人間なんだった。

 あたしはそんなの考えたこともなかった。

 手伝うって、言うだけなら簡単だけど、これは誰にでもできる仕事じゃない。知らなきゃいけないことも山ほどあるのに、素人にゼロから全部を教えるのがどれだけ大変なのか。そこに時間かけろっていうのか。そもそも権限はどうするのか。あたし以外の――今のじゃない、あたし以外のIDでは、レコードに一行のメモを書き加えることすらできやしないのに。

「みんなの世界だから、みんなで直せば、てすちゃんゆっくりできるよ」

 自分がどれほど非現実的で難しいことを言ってるのか、彼女はわかってないのだ。こんな気持ちになるのなら、他人に成り代わってまで中央の仕事を投げ出してまで、彼女に会いに来るんじゃなかった。ちょっとやそっと発狂したくらいで、ありもしない希望をたったひとつの命にかけるんじゃなかったのだ。

 そしてその後悔はもうずっとたぶん、いや嘘だ今こそ、そうだ今さら真に後悔してるのかもしれない。