ペンを握ったままの手で、実際にはペンを握ってるわけでもなく、キリウ少年がしきりに左目をこすっていた。まるで明日か明後日に眼球が爆発してしまうとでも思っているかのように。
次にメイヘムの車載スピーカーから鳴り出した曲は、これまでの流れを完全に無視したひときわチープなものだった。そんなものをプレイリストに入れた覚えが無かったI.D.は首を傾げた。
「なんだこれ?」
彼女は片手で入力装置を叩いてコンソールに表示させたデータを、一つしか無い目でじっと見た。組みかけの新しいカーオーディオには、まだ表示パネルが無い。アルバム『イドピカ』――実在しない音源だった。
「飛ばすね。あんま好きじゃないや」
それは隣のキリウに許可を取ろうとしたわけでもなければ、提案したわけでもなかった。仮に尋ねたとして、彼がI.D.のやることに異議を唱えたことも無かった。今日もキリウの返事は暗黙的なYESだったし、I.D.も彼の返事など待たずに、指先でキーを弾いてプレイリストを一つ進めた。
ここまでアクセルを踏んだまま。ここからもしばらくアクセルを踏んだまま。
キリウが、次の曲の入りが終わったところで、がれきから釘に尋ねた。
「好きじゃない曲も入ってるの?」
前を見るのに飽きたI.D.は、キリウの方を向いて答えた。
「好き嫌いで集めてないからねー」
「同じ曲、一回も聴いてない」
「そこ気づいてくれるかー」
こんなにも変わり映えのしない、目印ひとつ無い白く濁った空と真っ黒な地平線とが混ざり合わない街の外で、その狭間を見つめたままでいられるのは選ばれし者だけだった。人を撥ねたとして、こんなところに立っているのもそれなりのあれだし、そこらへんに埋めて立ち去れば、もう誰も見つけることなどできないだろう。探しに来る者もいないだろう。
それはI.D.たちにも言えることで、今ここで星が落ちてきてメイヘムもろとも吹き飛ばされたら、いつか全てが風になるまで永遠にそのままでいるだろう。
I.D.の、目薬が回って間延びした声と存在がへにゃりと笑った。
「がんばって集めたんだよー、音源。昔は、持って運ぶに円盤とか箱がいっぱい必要だった。今はカードの束でいいけどさー。音質が良くなるって聞いて、生体メモリに焼いたりして、あん時は腐っちゃって大変だった」
集めるだけ集めた音源を、かつてのI.D.は主にラジオで流していた。人間社会の端っこでひとり生きていた時分から、みずから開いた違法なラジオ局で好き勝手に曲を流していた。そのせいで誰かが嫌な思いをしたかもしれないし、精神的苦痛で死んだかもしれないが、I.D.の知ったことではなかった。時には発禁になった曲や著しく品性に欠ける歌もかけたが、単なる公平性の範疇であり、しかしこれといった主張のない放送内容と相反するように、彼女はより広域に電波を放つことを好んだ。それがどういう意味を持つのかは、元来自己の無いI.D.自身にはよく解らない。たぶん意味は無い。
さらに書いておくと、かようにI.D.はいくつかの専門的な技術を持っていたが、それでもって世の中に貢献する発想も無かった。I.D.はそれらを自分だけのものにすることで内面的な安心を得ていたし、他人のために使うよりもその方が良いと本気で思っていた。
社会を持たない生き物の発想だな、と誰かに笑われたことを彼女は覚えている。そいつは畑荒らしとゲームセンター荒らしで食ってる人間だった。
「記録媒体が壊れたらって、思う?」
キリウの質問に、I.D.は無い鼻で笑った。
「考える意味が無いね。壊れないし、壊れてもサルベージするし、バックアップもそこらじゅうにあるもん」
「全部壊れたら?」
「だーから」
「全部」
抑揚のない声で繰り返したキリウが、I.D.を虫のような目で見ていた。話し相手の方に顔だけ向けて、真っ赤な瞳で宙の一点を見つめて動かないさまが、そこに虫を想わせるのかもしれなかった。モノグロの青ざめた眼球を持つI.D.は、正面から見た彼の血走った目をとても異質に感じたが、実際のところ違う生き物だから当然だし、それ以上のことは無かった。
I.D.は少し考え込んだ後、真顔で言った。
「えー、死んじゃうかも」
言うほど冗談でもなかった。I.D.はもう少し考えた後、大きな一つ目をぎょろりとキリウに向けて、思い出したように声を上げた。
「ってか、なに!? 縁起でもないっ」
キリウは申し訳なさそうにするわけでもなく(申し訳なさそうに思っていたのかもしれないがそうだとしたら態度に出てこずに)(申し訳なさそうにしてほしいとI.D.が思っていたわけでは決してないものの)続けた。
「俺、持ち物が、全部なくなっちゃって」
「おととい自分で捨ててなかった?」
「捨ててない。もともと何も持ってなかった」
実際捨ててたし、持ってないなら何を失くしたんだとI.D.は突っ込みたかったが、また泣かれると面倒なので突っ込まなかった――「I.D.は、持つのが怖くない?」
ははははははーん。
何かがわかった気がしたI.D.は、片腕を頭の後ろに回して、わかった風に口を尖らせた。
「わかったよ。つまるとこキミは、所有物に所有されることの是非とか、そーゆーのを言いたいんだ」
「違う」
「いやいやいやいや。そうだよ!? こないだキミは、昔、自分の部屋を爆破したことあるって言ってた。キミはだんしゃりに目覚めて、腐れミニマリストの隠れマッチョイズムの、反物質民主主義の内面的な豊かさがそんなかんじになっちゃって、ぎっこんばったんしてる系なんだああああ~。キミってその、ファザコンでしょ」
「違う」
違うと言ったキリウは、内心では父親の概念を理解していなさそうな顔をしていた。I.D.はへーらへーらしたまま訊いた。
「それじゃあ、なんなんだ、キリウ君は? キミって、自分が自分じゃないことが怖くないみたいだ」
虫のような目がI.D.を見ていた。唯一無二のI.D.のエゴがキリウを見ていた。虫のような目をしたキリウが僅かに視線を下げて答えた。
「お箸の持ち方がわかんない」もう少し視線が下がった。「落っことすし……置いとくとこもない」
「なるほどね」
なるほどなもんか。彼は落としてるんじゃなくて捨ててるのに、その自覚が無いのだ。I.D.はキリウのそれが思い込みであることを指摘したかったが、そういうのは聴き上手じゃないとかつてE.A.に指摘されたことを思い出したので、いい加減に肯定するだけに留めた。
しかし当のキリウがそれ以上の意見を求めるような目で見てくるので、I.D.は再び、ゆっくり口を開いた。
「無理に持たなくてもいいんじゃないの?? 無くていいなら無いほうがいいでしょ!? 散らかるし。単にワタシが、自分の半分くらいを、べたべたさわれる形で身体の外に置いてた方が落ち着くタイプってだけでさ。目が覚めた時にメイヘムに乗ってたら、自分がI.D.だって思い出せるでしょ。だーから寝るの苦手なんだ。今も靴履いてるし、プレイリストの順番も覚えてる。ほら、モノグロって、主体性が無いから――」
彼女は当然のように言ったけれど、I.D.以外の誰もそんな魚が全員A型みたいな話は知らなかった。I.D.は突然見えなくなってしまったキリウをダッシュボードの向こうに探しながら、少し声を大きくして言った。
「キミのために作ったリストなんだよおおお。でもキミって分かんない奴だから、インストしか入れなかった」
いつの間にかメイヘムは止まっていた。エンジンの音が消えた箱の中で、オーディオだけが異様に澄んで響いていた。
I.D.のへにょへにょになった上体が、助手席のキリウの方へと投げ出されていた。放ってあった入力装置がずり落ちて、ケーブルとともにI.D.の足元に転がっていた。彼女の眼球ばかりの頭の中でぐわんぐわんとインストの切れ端が飛び回り、ガラスのように切れ味を増した上モノが、きゅっと狭くなった意識の中をドンドコして最高だった。ドンドコする視界に横からキリウの顔が入ってきても、まだそうだった。
「I.D.は、どうして俺に優しいの」
ファンは大切にしないとねええええ。
などとは口が裂けても言えないI.D.は、灰白色の手をがばっと持ち上げて、爪の無い指でキリウの冷たい頬を押した。
「ワタシは誰にでも優しいよおお」
「嘘」
I.D.には、なぜキリウがそんなことを言うのか解らなかった。ただ率直に「キミめっちゃ失礼だな」と考えたままを口にしていたし、キリウも「ごめん」と微妙に申し訳なさそうに呟いていた。