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187.迷子は煮て食え

『世界をぶっこわせば学校に行かなくて済むと思った』

『俺じゃない。ナマズ様の池にシャンプーを投げ込んだ奴がやった』

『カッパが死んでた。俺がやったかもしれない』

『何してるのかわからない。夢とか将来の目標とかぜんぜんない』

 とんだ電波野郎と関わってしまった――。

 知性あるモノグロの少女I.D.は今、その知性ゆえかつてないほど困惑していた。こんなに困ったのは、フリー時代にノマドの至りで味噌汁飲みながらエンゼルパイ方程式の別解を見つけてしまった時以来だった。むしろ後悔していた。I.D.がI.D.になってから今までの間で一番とまでは行かなかったが、少なくとも、あの電波塔の下で彼というものを撥ね飛ばしてからこれまでの間で、一番後悔していた。

 電波野郎、もといキリウ少年はI.D.の隣にいなかった。なぜならキリウ少年が二箇所に同時に存在しない前提において、彼はメイヘムのルーフの上にいるからだ。いるはずだった。降りた気配は無いし、なんなら動いてもないし、それを察知するI.D.のあらゆる感覚器は痛いほど鮮明だった。

 仮に本当にいるんだとしたら……彼はさっき出て行った時から何ら変わらないで、セミの抜け殻よりもスカスカな目をして膝を抱えているのだ。

 ――おとといの『崩落』から逃れた後、筋肉痛でダウンしていたI.D.が目を覚ました時、壊れていたはずのキリウはとっくに元の形に戻っていた。彼の人間離れした形状記憶ぷりは今に始まったことではないが、しかし彼はそこにいた。インコのようにどこかへ行ってしまわずに、I.D.の手が届くところにいた。

 それからどうやってここまで来たんだっけ。

 気が付けばメイヘムは知らない街の外れで冷えている。潰れかけの真っ黒ながれきと重機のゆりかごの陰で、静かに眠っている。その運転席でI.D.は、パイプの先からまっすぐのぼる煙をぼんやり見つめていた。見つめながら、目薬の打ちすぎですっかり怪しくなった記憶を手繰る彼女は、ひどい顔をしていた。モノグロの疲れ目は人相が変わるから困る。と言いたいところだが気のせいだった。全部気のせいだし、筋肉痛も思い込みだった。モノグロが筋肉痛になんてなるはずがない。呼吸をすることさえも。

(なんでメイヘムの中でパイプに火をつけたんだ)

 I.D.は自分の行いに動揺した。

 思い出したように息を吐いたI.D.の鼻先で、白い煙がふわりと笑う。そもそもI.D.自身、いつどこで火をつければいいのかもよく分かってないのに、なぜ動揺するんだろうか。だいいち燃やす必要が無いし、燃やしたところで煙が出るだけだ。たまに適当な理由をフいてみることもあるが、とどのつまり、これも思い込みにすぎない。かつて誰かが火をつけていたのを見て、それを真似してるだけなのだ。

 モノグロの行動原理はともかく、I.D.は火のついたパイプを持ったまま、おもむろにドアを開けて外に出た。メイヘムが肺ガンになったら嫌だからだ。そして――上を見た。

 ルーフの上だ。

 キリウ少年はやはりそこにいた。彼はメイヘムのルーフに座り込んで、夜勤のガーゴイルよりも動かなかった。相変わらず虚ろな目をしたままの彼は、なぜか、さっきまで持っていなかったはずの赤いジャンプ傘を広げている。曇り空に咲いた真っ赤な傘の下で、久しく見ない青空の色をした彼の髪は、最後にI.D.が見た時から変わらず乾いた黒い液体をこびりつかせていた。

 あんなにメソメソしてたのは夢だったのかな、とI.D.は思った。

 そうだ。I.D.が目を覚ました時、壊れていたはずのキリウはとっくに元の形に戻っていた。しかし目の納まりが悪かったのか、眼球の周りから黒い汁を垂れ流していた。水も飲まないのにどこから出てくるんだろうってくらい流れ出ていたので、I.D.は彼に植木鉢用の水をかけてやったんだった。

 どうしてあんなことをしたのか、なぜ電波塔をああするとああなる裏技を知っていたのかとI.D.が尋ねても、キリウは呂律の回らない声で「俺じゃない」「わからない」「ナマズ様がひどい」とかなんとか繰り返すばかりだった。めんどくさくなってきたI.D.が、それならキミは何者で、本当にしたいことは何で、何のために生きてるんだとストレートに訊いたら、いよいよ彼は真っ赤な目を真っ赤にして泣き出してしまった。メイヘムのハンドルを握りながら、I.D.はキリウを箱に詰めてそこらに棄てていってしまいたい衝動にかられたが、情があるのでそれはしなかった。

 I.D.は、日ごろからキリウがパープリンなことしか言わないのはべつに悪いことではないと思っていた。じぶんの近眼にはパープリンに見えるだけかもしれないし、他人の考えてることが解らないのは普通だし、もしもある日突然理解できるようになったのなら、それはそれで素敵だと思っていたからだ。けれどキリウ自身が説明できないどころか、当人にも意味が解らないことをしているのだとしたら、さすがにそれはキツいし無理だと考えを改めざるを得なかった。

 というか事と次第によっては、こんな危険人物を野放しにしておくわけにはいかなかった。

 今のキリウの右脚には、ダクトテープの切れ端が絡まったままだった。砂ぼこりにまみれたその端っこがルーフから垂れ下がっていたので、I.D.が手を伸ばして引っ張ると、ようやくキリウは彼女のほうを見た。I.D.は、これ以上キリウと行動を共にしてよいものかどうかを確かめるため、彼の傘を指して尋ねた。

「なんで傘さしてんの?」

 長い沈黙のあと、キリウは傘布の下から遠くの空を見上げて、ぽつりと答えた。

「白物家電がいっぱい降ってる」

 うそだあ~~~~。

 と、I.D.は直感した。とはいえ何がどう嘘なのかは判らなかった。嘘だとしても限度があった。もちろん電子レンジなど降っていないし、経験上、I.D.に見えない白物家電が見えてるような奴がまともなわけがない。

 それでもキリウが彼自身の行動を説明できたことは、いくらかI.D.を安心させた。

「中に戻ればよくない?? ほら、どっか行きたいんじゃなかったっけ。どこ? 連れてってあげるよ~」

 やけ気味に言いながらI.D.は、なぜ自分がこんな電波野郎の世話を焼こうとするのか不思議に思った。この迷子みたいな少年は、ネジが十本くらい外れたイカレポンチで、夢が無くて、電波塔の秘密を知っているくせに、自分が何をしてるのかさえ解らないのだ。おまけに空飛ぶ冷蔵庫や電子レンジが見えていて、かつての日刊虚言プランターのファンときた。

 案の定というか首を横に振ったキリウを見て、I.D.は無い鼻で笑った。行く宛が無いのはI.D.も同じなのだ。