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>コンテキスト切り替え
人の手で街を拡げるというのは想像以上に手間がかかる仕事で、土地に困った者はわりと安直にそういうことを言い出すが、ほとんどの場合は、今ある土地を垂直方向に活用する方がよほど効率的だった。しかしそれにまつわる議論は、大半の人間ががれきを直視できない事実と衝突して、充分になされることは少なかった。
イチゴのように潰しかけのがれきに埋もれた区画が、街の端っこで重機とともに砂埃をかぶっているという光景の多くは、そのようにして生まれた。誰にも咎められないその場所で、多くの命知らずなキッズが秘密基地を作ったり、神隠しに遭ったり、月を見たりした。
「月がキレイだな。メカニック」
メイヘムのルーフに腰かけた植物性妖精のE.A.が、双眼鏡を夜空に向けっぱなしで言った。小柄な彼が両手でよっこら抱えているそれは、モノグロの少女I.D.の私物であり、常時はメイヘムのグローブボックスに押し込まれていたが、実質的にはE.A.専用のものだった。ここには、眼球が二つある生き物は彼しかいないからだ。
メカニック――違法ラジオ局あるいは番組『日刊虚言プランター』のメカニック。白いがれきの上に機材を広げて、降り注ぐシグナルをモニターしていたI.D.は、声が降ってきた方を見上げた。見上げようが見上げなかろうが、E.A.が勝手に喋ることには違いなかったが。
「なんていうか、白くて丸い。この世のものとは思えねーほど丸い。金銭感覚がヤバそうってか」
「むにゃむにゃ」
割り込んできたのは寝言だった。E.A.の傍でひっくり返っている、別のモノグロが発したものだ。
E.A.が『目ん玉』と呼ぶモノグロだった。つい二時間前の放送で、いかにしてラベンダーの香りの地獄の門が開かれるかといった話題でE.A.と大はしゃぎしていたかれは、今は骨みたいな身体を標本よろしく広げて、スパチカ眠りこけていた。
エゴとアイデンティティにうるさいI.D.と異なり、かれはごく普通のモノグロだった。実際にはE.A.の弟分ゆえ人語が堪能であるとか、映画『ダイナマイト・クラブ』のラストの解釈で揉めまくる等といった高い知能を有しているのだが、当人にはその自覚がまったく無かった。むしろかれが潜在的にそう望むように、仲間とリスナーを含む誰もが、かれはちょっぴり抜けてる奴なのだと信じ切っていた。
E.A.は双眼鏡をルーフに置き、小さな手で、目ん玉のしっぽの先をびよんと弾いた。目ん玉は大きな一つ目をぴったり閉じたまま、まるで睡眠をとることで幸せを感じる生き物みたいな顔をしているだけだ。それを見て満足げに口角を上げたE.A.は、裸眼で空に向き直って勝手に続けた。
「――あれは概念上の存在かもしれねーな、メカニック。そんなのは、この世の食えないもの全てに言えることかもしんないけどな。だからオレは今、月って食えるんじゃねえかと思ってるぜ」
ありえないほど軽薄な笑みを浮かべたE.A.が、どこまでそれらを本気で言っているのかは、I.D.には判らなかった。
E.A.は、誰にも尋ねられなくとも自らの細胞質に渦巻く実存と本質をぺらぺら喋りまくる生き物だった。それくらいでなければ、この殺伐とした世界でラジオD.J.など務まらないだろう。内容なんかどうでもいい、本当に大切なのはそこんところなのだ。ただでさえ世の中には、訊かれなければ答えることもできない、話題が無ければ何を喋ればいいのかすらも分からない、そんな薄らボケばかりがうじゃうじゃしているのだから。
彼のその性質は天性のものだった。I.D.は、イル科の雑草が茂りまくった河原の端っこで、毎日目ん玉ひとりに語らっていただけの頃のE.A.を知っていた。あまりにも彼らが楽しそうに喋っているから、毎日飽きもせず新しい遊びを考えているから、I.D.は彼らを引っ張り込んだのだ。――I.D.と同程度かそれ以下の道徳しか持たないふたりは、よろこんでマイクの前に座った。
そのようにして、I.D.が好きな音楽を流していただけの違法ラジオ局は、グロテスクなほどにお喋りな妖精たちのトランスファットフリーな怪放送局に変貌した。
「しっかし眩しすぎる。あーゆーのは遠くから見てるに限るな。キレイだからって恋人にしたら、根っこまで灼かれるね」
「恋人ォ」
E.A.の深淵なることばに、コンソールを叩いていたI.D.は思わず苦笑いした。彼は両手で押さえていた二つのまぶたをぱーちくりして、I.D.に聞き返した。
「なんだ?」
「やあー。Eちゃんは、みんなのEちゃんでいてくんないと」
それは建設的な意見だった。『Eちゃん』に恋してる不謹慎なファンは多いのだ。
「けけけっ。オレは油虫にタカられてんのかよ」
E.A.がどこまでそれを本気で言っているのかは、I.D.には判らなかった。
仮に本気だとしてもI.D.は驚かなかった。実際のところ、E.A.は番組に寄せられる山ほどのメッセージのいずれにも、大した感情は抱いていないようだったからだ。それはメッセージの九割を占めるゴミ(正論・ド正論・殺害予告)と残りの一割との間ですら、平等にそうだった。
ただ、そのうえでE.A.は、向けられただけの好意に応える義理堅さも持ち合わせていた。たとえ根っこ(足らへん)ではどう思っていたとしてもだ。だからこそ彼は日刊虚言プランターのD.J.たりえたし、他の誰も代わりは務まらないだろうとI.D.は思っていた。
E.A.は再び双眼鏡を目元に当て、ぎざぎざの歯を見せて言った。
「なあ。月ってゆーのは球形の種子植物で、生命が無意識下で見る悪夢でもって維持される非常灯らしいぜ」
「まーた適当なこと言ってる」
「まーた適当なこと言ってるって思っただろ?」
I.D.は返事をしなかった。返事があろうが無かろうが、この世に一人でも話を聴いてくれる奴がいる限り、E.A.が勝手に喋ることには違いなかったからだ。