決まった姿かたち、性別すら設定されていないその存在を、何と呼べばいいのだろう。そいつはろくな名前を持っていなかった。『テスト』『tes』『ああああ』『テスト_2』『a』無いようなものだし、呼ばれたくもないと思っていた。
――。
カレイドスコープの中の電波塔が遠ざかってゆく。現心の向こう側で、身体じゅうから黒い液体が流れ落ちるままに、キリウ少年が吊るされている。黒、闇の色。乾いたインクの色。夜に見たカラスの羽、焦がした信用、隣の犬の歯茎の色。輝く甲虫、底なし穴、日焼けした魚の色。深淵と、深淵から覗く瞳の色。
濁りきった命の色。糸が切れてしまえば、水風船のように地面に叩きつけられ、破裂し、箱庭を染め上げる……黒。
だめだったよ。
彼は自答していた。自問もせずに。そうでなくとも答えは分かっていた。吐き散らかして、電波塔の上で膝をついた時に、気づいていた。
これじゃだめだったってこと。
あるエリア内の電波塔をまとめて壊すことで、真ん中に完全に電波が届かない空間を作り出し、大地が崩落したところから飛び込めばよい、という考えが浅はかだったってこと。
そんなことをすれば地上に修復不可能な傷が残るから、最後の手段だと思っていた。電波塔を間引くこと自体は、箱庭を延命するためにしばらくやってきたことだけど、それがあるから、隣接した電波塔同士は壊さないように注意を払っていた。
やったところで、この身体のほうが持たなかったのか。
考えてみれば当たり前だった。この身体も所詮は単なるアクターだから、まったく電波が届かない空間に行ったら、問答無用で崩壊してしまう。受け取った電波を姿かたちとして映し出すだけの器にすぎない、普通の生き物では。
たとえ、あの子の意思に護られて、完全に耐用年数を逸脱した生き物だとしてもだ。
ようするに彼は、今の自分がただの人間だということを忘れていた。
彼?
あの子?
――。
決まった姿かたち、性別すら設定されていないその存在は、今はキリウの中にいた。キリウという意志薄弱な少年の心に、良いように取り憑いていた。
それはほとんど運命みたいなものだった。もはや何も書き換えられない無力なオブジェとして、世界の果てに打ち棄てられていたはずのそいつは、この世界でキリウだけが持つ不完全な部分から、キリウの中に入り込むことができた。キリウに入り込み、操縦して、帰るべき場所に帰るために、この二百年で、知りうる限りの方法を試してきた。ドアノブを冷凍する以外では。
不完全。あの子がそうしたそれを不完全と呼ぶのなら、この世界こそが不完全なのだ。最初からずっと。向いてない。才能無い。美しくない。誰もあなたを愛さない。明日にも全てが黒になる、クソつまらないオートマトン。
――。
彼はひどく疲れを感じていた。
ぐちゃぐちゃになって、ダクトテープで吊るされてることだけではない。近ごろ、思った通りに身体を動かせなくなってきてるのだ。さっきも、毒まんじゅうがどうたらとわけがわからないことを口走っていたし、モノグロ女の一匹も始末することができなかった。
いつから? ……。
なんにせよ、釘を刺しておいた方がいいだろう。もっと念入りにだ。これいじょう、彼は、時間を無駄にするわけにはいかないのだから。これいじょう、この箱庭を放置しておくわけにはいかないのだから。
それに、あれで失敗したということは、他の方法を考えることも必要になる。アカシックレコードを引っくり返して、塞がれていない穴を探してくるしかない。地表突き抜けバグが修復されてることに気づかないで、あっちこっちで何度も電波塔から落ちてたのは、今思えば本当に無駄だった。
解ったら、行かなきゃいけない。彼は行かなきゃいけないのだ。この、べたべたするダクトテープを引っぺがすことができたなら。