細かいことは抜きにして、このとき電波塔の天辺では、宙に浮いたままのI.D.がキリウ少年の両肩を掴んでがたがた揺さぶっている真っ最中だった。気持ち悪いくらい静かな世界の辺境で、彼女はあらんかぎりの声でキリウの名前を呼んでいた。
「キーーリーーウーー君っ!! キリウ君ってばーーーっっ!!!」
――正確には天辺よりもいくらか下のあたりだ。I.D.が追いかけてきた少年は、周囲をぐるりと囲った柵の内側で、まるっきり正気を失った様子で突っ立っていた。誰がどうしてこんなところに来るのか、大人ひとりがやっと動ける程度の足場に、制御盤だけが置かれた変な場所。なのに誰も気にしない場所。柵の外側に取り付けられた短い梯子は悪い冗談そのもの。
二分も前からこうしてるにも関わらず、彼は急に目の前で大声を出されたようにびっくりしてI.D.を見た。
「あ……I.D.?」
「ああーーーッ!? そうだよ!!」
「な、んで?」
訊かれるが早いか、I.D.はキリウにデコピンを食らわした。
「こっちの台詞だよッ! 早く戻ろうっ、なんかここやばいよ! っていうか何これえ!? 何してんのー!?」
I.D.のかっ開かれた眼の先には、モンキーレンチでバッキバキに叩き壊された制御盤があった。ぎゃあぎゃあ叫ぶのも無理はない。彼女はキリウに勝手に愛用の工具を持ち出されたうえ、傷だらけにされたのだ。
この塔が機能を停止していることは明白だった。狭い足場には制御盤を形作っていた四半分くらいがことごとく散らばり、レンチの無体な扱いを物語っていた。ひしゃげたパネルの下から引きずり出された配線は臓物にも似て、完全にねじ切られていた。何より、電波塔に近づけば嫌でも聴こえてくる――少なくともモノグロの聴覚には――低い低い唸り音が、今は全く無いのだった。
まだ陽が出ているはずなのに、辺りは異様に薄暗かった。この時、U軸上に巨大な亀裂が出現していたが、三次元空間上からそれを観測することは困難だった。三百六十度の地平線の向こうはどこも真っ暗闇に沈んでいる。情報が抜け落ちた空間が分厚くなって、視界の上限まで続いていると、観測者にはそのように見えるのだ。
実際のところI.D.に判ったのは、それが夜の暗さではないということだけだったが、そんなことはどうでもいい。彼女はフリーズしてるキリウの腕を掴んで、この場所から連れ出そうとした。ここもすぐにあの闇に呑まれてしまう気がしたからだ。けれどI.D.の手が触れた途端、キリウは虫のように飛び退いてそれを拒否した。
「お、おれ、ここここにいなきゃ、いな」
異様なつっかえ方をしているキリウの瞳の赤色は、今はおそろしく虚ろで、暗く濁ってI.D.の目には映った。I.D.は足場に降り立ってもう一歩詰め寄り、今度こそキリウの両耳を掴んで詰問した。
「なんでよー!?」
「いいい、いかなきゃ、いかなきゃいけないとこが、あ」
「どこにさ! メイヘムで行けばよくなーい!?」
「や、やめて、やめて、I.D.……ここにいたら、いたら、いた」
その瞬間、叩きつけるような突風がふたりの間を吹き抜けた。
ずっとずっと、家主を失った家のように凍てついていた空間をかき回したその風は、エーテルが崩壊する時に放たれる鏡断面からのエネルギーだった。匂いも色も温度も無いはずのそれは、モノグロのI.D.にとっては不思議と懐かしく、彼女が一粒のがれきだった頃のことを想起させた。一方で人間のキリウにとってはそうでもなく、彼は口から真っ黒な液体を吐いてよろめき、緩みかけたI.D.の手をすり抜けて足場に崩れ落ちた。
その様子を見たI.D.はこれ幸いとばかりにキリウの身体を抱え上げ、無理やり柵の外に運び出そうとした。しかし――尚も暴れ始めたキリウが、先ほどまでとは打って変わった剣幕で叫んでいた。
「はなせええっっ、この毒まんじゅう《モノグロ女》があああああ!!!! ぐにゃぐにゃ踊りやがって《じゃまをしやがって》!!!!」
いくつかのフィルタをすっ飛ばして変なチャネルから無理やり発されたその声は、ひどく潰れて歪んでいた。
キリウが振り回した肘を頭に食らったI.D.は意識が飛びかけたが、気のせいだった。モノグロはそのような生き物ではないし、今の彼女は無敵だからだ。とはいえI.D.がその勘違いに気づくまでの数秒間で、彼女の腕から抜け出したキリウは、真っ逆さまに柵の外へと転げ落ちていた。
そのことにI.D.が気づいたのとほとんど同時に、ごぎーんと金属を叩く鈍い音が響き上がった。ぐぎゃっ、という、人間のものとは思えない悲鳴も。
キリウは電波塔を形作る無数の骨に全身をぶつけながら、そういうおもちゃのように、塔の内側を下へ下へと落ちていった。我に返ったI.D.は重力よりも速く地上に舞い降りたが、案の定というか間に合わず、キリウは塔の真下で捌くのに失敗した魚みたいになっていた。
流石に今度こそダメかもしれんと回転しつつも、I.D.はどこからともなく取り出したダクトテープでキリウをまとめると、高笑いを上げながら飛び去って行った。弾丸よりも速く、元来た方角へと。