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183.ただの悪夢

 キリウ少年には色んな友達がいたけれど、そのほとんどはろくな別れ方をしなかった。その原因は音楽性の違いだったり、解釈違いだったり、勘違いだったり、金の貸し借りだったりした。時として、名前も思い出したくないほど嫌いになって終わった奴もいた。

 ――。

 キリウは、誰もいない夜明け前の駅のプラットフォームにいた。屋根のあるところの方が少ないような、糞田舎の小さな小さな駅の端に佇んでいた。

 降り続いていた雨が止んでも、キリウは自分のものでない赤い傘を差したまま、世界の果てまで続く薄い雲と青い闇の間を見つめていた。風ひとつ無いこの場所では、ときどき露先から流れ落ちる雫が、靴を浸した水たまりを叩く音も聴こえた。涼しくて静かで薄暗くて、心の底から透き通っていくようだった。

 だから急にそれを壊したくなって、キリウが傘を下ろして雫を払った時、プラットフォームの下を満たした鏡のような水面に、わあっと波紋が咲いて広がった。暗い透明な青の中で、それらは無数の光の輪のように見えた。

 ――。

 誰かに名前を呼ばれた気がして、顔を上げた。

 キリウは荒れ果てた庭園の東屋でひとり、ベンチに座ってぼんやりしていた。今日はフリーマーケットのはずだ。雨は降ってない。

 辺りは足の踏み場もないほど白い虫の死骸が転がっていた。だからか、それらは一匹残らずぺしゃんこに踏み潰されていた。当たり前だ。足の踏み場もないからだ。じゃあ、仮にこれがご先祖様とか女子とか猫でも、君は足の踏み場がないからって踏み潰すんだ。君はそういう奴なんだ。邪悪だ。無反省だ。不道徳だ。

 薄情者め。

 この庭園には……この庭園には、彼らの腹から飛び出した柔らかい中身を啜る亡者もいない。石化した庭木、干上がった池、一本残らず病んで腐り落ちて砂になったアジサイ。散らばった骨。火あぶりにかけられて真っ黒になった天使の骨。素敵かもしれないけど、そのために失くしたものを直視したくない。

 でも、どうしてキリウは彼らが踏み潰されたことを知っているのだ。ここにはキリウしか居ないのに。どうして、至る所にアジサイが咲いていたことを覚えているのだ。あの骨を天使のものだと思った理由、羽もないのに。昨日から降っていたはずの雨が、今はすっかり止んでいる。カレンダーみたいに真っ白な空。

 ――。

 キリウは禁書のコピー本を売ろうとしてたけど、やめた。リンゴの死体で作ったお菓子も。

 帰らなきゃ、とキリウは思った。何処にかは分からないが、早く帰って巡回セールスマン問題を解かなければと思ったのだ。足元を探ったキリウの爪先は、ベンチの下に転がっていたカッパの死体に当たった。酸化した体液にまみれて、真っ黒に変色したカッパの死体だった。

 しかし立ち上がって歩き去ろうとしたキリウを、呼び止めた声があった。

「無理してない?」

 振り返ったキリウの目下にいたのは、傷だらけの少女だった。

 キリウと同い年か一回り年上くらいの彼女は、ほんの一瞬前までキリウが座っていたところに居た。まるで朝からずっとそこにいたかのように。彼女は雨で濡れた学生服に身を包んでいた。スカートの裾に隠れた膝の上には、小さなモノグロの亡骸が横たえられている。

 キリウは無意識のうちに彼女の名前を呟いていた。

「ユコ?」

「キリウ、すごく疲れた顔してる」

「そう見える?」

 特に意味も無く聞き返したキリウを見つめて、彼女は少し悲しそうに笑って言った。

「あなたってたぶん、ほんとに分かんないんだ」

 言った後、彼女は弾け飛んだ。

 どう弾け飛んだのやら。シャボン玉か何かか。あるいは横から撃ち抜かれたからか。キリウが虫のようにそちらを向くと、いつの間にかそこには、傘を猟銃のように構えた長身の男が立っていた。

 アカシックレコードで見た、暗い目をした酔っ払いだった。彼は傘を下ろすと、うんざりした風にキリウを一瞥して尋ねた。

「何か言いたいことは?」

 キリウは淀みなく答えた。

「越してきた頃、バイク壊されて、壊した奴をタタキにしてたよな。その犯人を教えたのは俺だったけど、俺はそいつがバイクに悪戯してるとこ、ずっと見てたわけなのに。あんな綺麗なバイク、あんな汚い街に持ってくる方が悪いから。でもルヅは俺に、ありがとうって言ったんだ」

「それだけか?」

「だけじゃないけどさ」

 この時キリウはどうしてか、自分のものでない赤い傘を持っていた。そして道徳的にあり得ない速さで大きく前に踏み込むと、何の疑いも無く、その先端を目の前の人間の鳩尾にぶち込んでいた。

 ――。

 キリウの頭上で、腹から空気が全部抜けるくらいにえづいたような、声にならない声がした。石突が固いものに当たり、どちらかが潰れたのをキリウは感じたが、そんなことはどうでもいい。

 突っ込んできたキリウに吹っ飛ばされたそいつは、白い虫たちの死骸の上に倒れ込んで動かなかった。咳き込みもせずキレ散らかしもせず、壊れた人形のように転がっていたが、すぐにその輪郭が激しくグリッチし始める。間髪入れずにキリウが蹴りを入れようとした瞬間、しかしそいつの身体は白い砂となって崩れ落ちた。

『うろちょろするなよ。ずっと眠っていればいいのに』

 背後――じゃない。頭の奥のすぐ近くから聞こえた声に、キリウは立ち竦んだ。それは自分の声だったのに、自分の声ではないみたいだった。

 当たり前だ。もともと『そいつ』には、決まった姿かたちや声など無いのだから。

 次にキリウの前に現れたそいつは、キリウと同じ姿をしていた。ただ、ちょっと画質が悪いというか壊れていたし、おそろしくドス黒い目をしていた。

 そいつはまた、何度目か、その視線でキリウを捕まえようとした。けれどキリウは咄嗟に傘で全部叩き落して、それから走って逃げ出した。ぺしゃんこになった白い虫たちを、再三に冒涜することも厭わずに。

 遠くからキリウを呼ぶ無数の声が響いていた。走りながらキリウは、そのどれに捕まっても八つ裂きにされるような気がしていた。