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173.今の世界をどうするかを

 そのモノグロの少女には、名前が無いわけではなかった。ただ、誰かに与えられたものではなくて、彼女自身が初めて集団の中で自己を識別する必要があると感じた時に、自分で付けたものだった。

 彼女はI.D.と名乗っていた。特に意味がある言葉ではなかったが、彼女はそれを自分の識別子だと思い、大切にしていた。たとえ周りに他のひとが誰もいなくても、世界中に自分ひとりしかいなくなっても、自分はI.D.なのだと彼女は信じていた。

 ただ、どちらかといえば彼女は社会の中のカオスを面白がる質なので、もし本当に世界中でたったひとりになったのなら、退屈すぎて爆発するだろうとも思っていた。爆発してしまえないのならば、名前を捨てて身体を捨てて、一片のがれきに戻りたいと思っていた。

 それはそうとして、今の彼女は頭を抱えている。黒いがれきだらけのゴーストタウンの大通りに座り込んで、作業用ゴーグルを付けっぱなしの頭を、白い腕で抱えている。……狭い部屋に閉じ込められて砂利を頬張りながらロウソクの炎を見つめてるみたいに、殺人的に気分が悪かったからだ。

「I.D.。大丈夫?」

 そんな彼女の名前を呼ぶ者がいた。もちろん電波野郎のキリウ少年だった。この場所には、彼女の他には彼しか居ないのだった。少なくとも人語を喋れるナマモノは。

 彼は石材のかけらを満載したコンテナを抱えたまま、まったくの無表情でI.D.を見下ろしていた。それは氷のように冷たい無表情ではなく、単に虫みたいに何も考えてないだけの無表情だった。

 キリウが内心ではいまだに『I.D.』という響きを不思議に思っているのをI.D.は察していたが、そんなことはどうでもいい。そいつに声をかけられた途端、I.D.は強烈な拒否感に襲われてまぶたが攣った。その理由はもちろん彼女がモノグロで、キリウがモノグロの敵だからなのだが、今日も今日とてそれを把握している者はどこにもいない。

 なので案の定というか、I.D.は自分の体調不良を、恋の病か花粉症か目薬の離脱症状のどれかなのだと勘違いしていた。

 ――ああ、やっぱり名前とゆーのは他人に呼ばれてこそだ。I.D.は空を仰ぐと、ポッケから引っ張り出した赤い目薬を四滴点眼した。厚い雲の向こうの空の光が、ブンブン鳴り響く機械音が、鮮やかな液体とともに大きな眼球の上を滑ってゆく。明るいピーコックグリーンの虹彩のふちが、ほのかに赤らんでゆく。

 彼女は一つ目の目頭と目尻(どっちだろね)の脇を、左右の人差し指でぎゅーと押さえながら答えた。

「うううう~。うん。へーきへーき」

 それを聞いたキリウは、その場で数秒呆けていたが、やがて彼の作業に戻っていった。彼は車の横でブン回ってる抽出器の投入口にコンテナの中身をあけて、全てのかけらが滞りなく吸い込まれていったのを見送ると、またカラのコンテナを抱えて向こうに歩いて行った。

 唸りを上げる抽出器の振動を感じながら、I.D.は今の出来事を反芻していた。――ああ、やっぱり名前とゆーのは、他人に呼ばれてこそだ。長らく新しい友達がいなかったI.D.は、とつぜんキリウに身を案じられたのも相まって、じわじわと感極まっていた。

 珍しいことだったのだ。ここまで1000時間ほど行動を共にしてきて、彼女から見たキリウは、たいてい機械みたいなヤツだった。飲み食いしなくても動けるのはモノグロと同じだけど、キリウは必要が無ければ喋らなかったし、ときどき何かに憑りつかれたか(あるいは目を覚ましたか)のように、一人で勝手に喋り出すのがほとんどだったからだ。何よりI.D.は、キリウが笑ったところを見たことがなかった。

 まだ出会って日が浅いからそーゆーもんだろうと彼女は納得していたけれど、でもちょっと変なヒトなんじゃないかとも、本当は思っていた。

 そうこうしてるうちに、抽出器のインジケータが瞬きだした。繋いでいた容器が満タンになったみたいだ。I.D.はふらりと立ち上がると、バッテリーから伸びている抽出器の電源を引っこ抜いて止めた。完全に止まったら、黒い円筒形の容器を取り外して、慎重に中身を確認する。

 容器の中にはなみなみと透明な液体が溜まっていた。これが『基質』だ。I.D.がそう呼んでるだけで、他の人がどう呼んでるかは知らない。頑張って組み直せばどんなものにでも変換できる有用なものだけど、素手で触ると指が溶けてしまうので、注意深く扱わなければならないのだ。……あとは新しいカラの容器を繋ぎ、フィルターに引っかかったカスを取り除いたら、電源を繋ぎ直せばOK。

 いつの頃からだったか、世界中のがれきが真っ黒に染まってしまって以来、純粋な『基質』を入手するにはこういった作業が必要となっていた。昔は白いがれきをテキトーに分解するだけで無尽蔵に得られたのに、黒いがれきは不純物が多いのか、全然ダメなのだ。それならば建材とかから抽出した方が、まだマシなものが手に入るのだった。

 I.D.はふと、自分の衣服が汚れていることに気づき、グローブをはめたままの手でばたばた払った。さっきまで座っていたのが、モニョモニョした何か埋もれて頭しか出てない掲示板の上だったからかもしれない。

 ここは未定義オブジェクトの嵐に襲われて放棄されてしまった街なのだと、さっきキリウが言っていた。でもI.D.には意味が分からなかった。

 そんなかんじで、キリウはI.D.が知らない奇妙な噂話をたくさん知っているようだった。例えば彼の独り言によると、今の世界が決定的にこうなってしまったのは、33641線の重力発電所で起きた事故がきっかけなのだそうだ。重力の崩壊に巻き込まれて路線が丸ごと消し飛び、信じられないほどたくさんの人が死んだ後、世界中のガレキの0.3パーセントがいっぺんに黒く染まった。それから引っ張られるように、半分ほどあったはずの白いガレキが、次々と黒く染まっていった。もはや再生成してないのが不思議なくらいにだ。

 ――らしいよ。I.D.は、どうしてキリウがそんなことを知っているのかを不思議に思ったりはしなかった。たぶん、あんまり意味が無いことを言ってるんだろうなぁと思っていたからだ。

 I.D.が封をして箱に詰めた黒い容器を車の荷室に積んでいると、またキリウが白っぽい石材をコンテナに入れて戻ってきた。今度は目薬が効いていたので、I.D.は彼を直視することができた。

 再び抽出器にコンテナの中身をあけたキリウが、I.D.の方を見ずに呟いた。

「運転、代わろうか?」

「だあああああ、だめだめだめ! ワタシのメイヘム(※)はそんな尻軽じゃないっ」

 ※この車のかつてのペットネーム。完全に改造してしまった今も、I.D.はこの乗り物をそう呼んでいる。ただ、メイヘム(騒乱)なんて名前の車が本当にあったのだろうか。人間社会に疎かった頃の彼女の勘違いの可能性も、無くはない。

 それにしても、どうしてこんなに便利な資源を他の生き物たちが活用しようとしないのだろう? そこんとこが、今も昔もI.D.にはまったく理解できなかった。それどころかほとんどの生き物たちは、がれきが黒くなってることすら認識していないみたいなのだ!

 だからI.D.は、世の中はバカばっかりなんだと思っていた。万に一つ、自分がおかしいかもだなんて、彼女は絶対に思わないのだった。