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159.爪噛み癖が指を裂かないようになるまで

 ぶちっとマイクが切れる音がして、それきりだった。

 列車の席で携帯ラジオを握りしめたままのキリウ少年の耳には、割れそうに叩き続ける自分の鼓動しか聴こえなくなっていた。その向こう側で響く翅音も、誰かの歌声も、車輪の音も、今だけは月よりも遠い気がしていた。

 月がどれだけ遠いかなんてどうだっていい。何かよっぽど良くないことが起きたに違いない、とキリウは不安に駆られていた。いつだったか当局にバレた時も、すぐ近くにミサイルが落ちた時も彼らはケラケラ笑っていて、あんな終わり方は決してしなかったからだ。

 ラジオはとっくに本来の放送に戻っているのに、キリウのショートしかけた頭は元に戻らなかった。しゅわしゅわしたアイドルソング、肋骨を増やすサプリの通販、電波通信高校の生物の講義、狼レース実況中継、ジグモ線は正常に運行しています。子供を転送して死なせたとして逮捕された母親、永遠に未完成の交響曲、名前も知らない誰かが世を憂う、笑う、寂しさに唆されたメッセージを読み上げる。左から右まで回しても、彼らの声はどこにも見つからない。

 よりによってこんな時に。一番そこに居てほしい時に。

 キリウは半ば自分の心のスイッチを切るように、ラジオのスイッチをそうした。これ以上考えていると動けなくなりそうだったからだ。耳にかけていた出力装置も震える手で引き剥がし、コードを巻き取り、握り潰した虫もろとも上着のポッケに押し込む。また明日にでも明後日にでも彼らがどこかしらの周波数を手に入れて、今日のことを説明してくれることを信じて。

 いや、そうでなければ困るのだ。彼らは今やこの世界でキリウを証明可能な数少ない存在の一つなのだから。それどころか、キリウがキリウとして自分を証明したいと思える数少ない理由の一つでもあるのだ。まだまだ青いキリウには彼らが必要だった。その実、むしろ彼らの前ではいつまでも青いままでいたいと願う気持ちに、キリウ自身は気づいていなかったが。とにかく、何日先になったとしても、次の放送には久方ぶりにメッセージを送ろうとキリウは胸に誓った。

 が、ちょうどその時、キリウの右肩にもたれかかって眠っていたコランダミーが小さく呻いたのだ。

 キリウは自分のうるさい心音で彼女の眠りを妨げてしまったような気がして、無理やり深呼吸して落ち着こうとした。けれど続けて、彼女がむにゃむにゃと「ジュンちゃん」と呟いたのを聞いて、今度は心臓が止まりそうになった。

 しばしの完全な空白の後、シートの背もたれに首を預けてため息をついたキリウは、ひっくり返った本棚を放ったらかしてお茶を淹れ始めた時のような気分になっていた。

 最後にボックス席でコランダミーの隣に座ったのが、ずいぶん昔のようにキリウには感じられた。実際、キリウは席が空いてさえいれば、隣に鞄を置いてひとりで座る方が好きだった。けれど、その理由を詳しく説明すれば確実に「傷ついた」「不愉快になった」という意見が寄せられるだろうから、キリウは未だにそれを明言できたことがないのだった。

 今日だって、今はガラガラだけれど乗った時にはわりかし席が埋まっていたから、隣同士で座っているというだけなのだ。こうして目を伏せて寝息を立てているコランダミーは、まるで人形ではないみたいで、キリウは見ていて恐怖を感じた。反面、少し可愛らしくも思っていた。

 彼女はトランを抱いて眠っていた。結局あの後、駅まで歩く道すがら、キリウは恥を捨ててコランダミーに頼んだのだ。何があったのか、トランに話を聞いてみてほしいと。結果、虫がいっぱいいただとかルービックキューブが壊れただとか、ちっとも要領を得ない答えばかりで、キリウの勇気はほとんど無駄になってしまったのだけれど。

 でも吾輩の意見を言わせてもらえば、それはそれで良かったと思うのだ。逃げずにその話を彼女にできたこと自体が、キリウにとっては大事なはずなのだから。そうだとしたら、キリウがこうしてずっとコランダミーと列車に乗ってきたのも、全部が全部無駄ではなかったのだろう。たぶん。

 キリウは完全に仕舞うタイミングを逃した携帯ラジオの角に歯を立てて、やっぱり、やっぱりやめた。まだ聴かなきゃいけないんだからね。