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160.世界の果てで

 まさかアカシックレコードが実在するとは夢にも思っていなかった。もちろんあれが本当にそれなのかは分からなくて、皆も半分洒落でそう呼んでいるだけらしいのだが。

 ただ、とにかく大きすぎる。まばたきする間にも狂的な勢いで膨らんでいて、闇雲に読んでいては、目的の情報をピンポイントで探すことなど到底不可能。練習のつもりで読み始めて一週間経つが、最後に家の鍵をしまった場所がいまだに見つからない。何より、引っ張るだけでかなり頭が疲れる。どこにつけても無数のコツや勘所があるのだと、リドルが言っていた。

 ――‭D552年 某月 某日‬

 

 

 いつからあったのか、気がつくと線路の向こう側には、スズメバチと端材を混ぜ固めて作ったような警戒色の柵がずらりと立ち並んでいた。その至るところに取り付けられた看板の文字を、キリウ少年がようやく読めたのは、がたぴし停まった列車からフラフラになって降りてきた後のことだった。

『ここから500m先
 X=0につき通り抜け禁止』

 それにしてもすさまじい悪路で、せっかく頭の中で育てていたたんぽぽの綿毛が列車の揺れで全部抜け落ちてしまった。トランを小脇に抱えて、キリウは内心穏やかでない気持ちになっていた。そんな一本きりの路線から繋がるこの終着駅は、みずから最果てを名乗っていた。

 一方で、どことなく浮かれた所作をしたコランダミーが、キリウの三歩前をぱたぱたと歩いている。やがてすぐに辿り着いた古めかしい有人改札には、老年の駅員がたたずんでいた。その人は「許可が無ければ街には入れられない」と言うのだが、コランダミーはいつもの調子で平然と答えたのだった。

「あたし、ミシマリ工房の人形なの」

 するとそれを聞いた駅員は、キリウとコランダミーを残したまま小さな事務室に引っ込み、どこかに電話をかけ始めたようだった。

 思わずキリウは勝手に外に出る素振りをしてみたが、駅員は気づいていないのか、特にすっ飛んでくるわけでもなかった。コランダミーも気づいていないのか、花のようにゆらゆらと揺れているだけだった。よくわからなくなったキリウは、無人となった有人改札口の内側から、大人しく外の様子を眺めていることにした。

 そこは、一目見て分かる小さな街だった。列車の窓から覗き見た遠景からしてそれは自明だったが、近くで見るともっと顕著で、きっとキリウが駅舎に登って軽く跳んだだけでも、街中の全ての建造物に仇名をつけることができそうだった。

 昼下がりの駅前だというのに辺りにはまったく人影が無く、異様に閑散としていた。実在しない虫たちを度外視すれば、鳥の羽ばたく音すら聴こえそうなほど静かなのに、鳥も居そうにないほど生き物の気配が無いのだった。かと思えば、急に豚の鼻を満載したカゴを抱えた青年が走ってきて、それを花壇の土に全部埋めていったりした。

 花が咲くんだろうな。

 辺境の路線には稀にこういった奇妙な街があり、総じて癖の強いコミュニティを形成しているものだった。恐らくここも一筋縄では行かないに違いない。穏やかでない気持ちが確信じみてきたキリウの隙間からたんぽぽの綿毛がこぼれ落ち、足元でうごめく白い虫たちがそれを無慈悲に貪ってゆく。咲かないのだ、お前だけは。

 五分くらいそうしていただろうか。唐突に、キリウの腕の中でトランがギイと鳴いた。ばたつきだした硬い首根っこを捕まえて、キリウが無意識に追った赤い一つ目の視線の先には、いつの間にかひとりの女が立っていた。

 ――たぶん。白い虫に集られているせいでキリウにはすぐに判らなかったが、年頃の女だった。唇をへの字に結び、コルセットスカートの腰に左手の甲を突いた彼女は、僅かに首を傾げて改札口越しのコランダミーを見つめていた。

「みっちゃん、この子、あんたんとこか」

 これまたいつの間にか戻ってきていた駅員が、コランダミーを示してその女に尋ねる。みっちゃんと呼ばれた女は駅員とアイコンタクトを交わすと、厚底のブーツでずいと一歩前に出た。そして氷のような表情をほんの少しも変えずに口を開いた。

「型番は?」

 コランダミーは、世界でいちばんきらきらした顔で即答した。

「XD-123!」

 それからほんの数秒の間に、さっと手で口元を隠した女の顔はみるみるうちに綻びて、散らんばかりの勢いで花開いていた。

「うっそぉ~~! なんで? おかえんなさい!」

 その女が裏返りに裏返った声を上げながら、姿勢を落として小さなコランダミーを正面からむぎゅうと抱きしめる光景を、キリウはぽかんと眺めていた。びっくりした白い虫たちが勢いよく逃げてゆき、下から出てきた彼女の姿もまた、どこか精巧な人形のようだった。

 一斉に飛び立ったせいで白い虫たちがぶつかり合い、翅がもげて次々と地面に転がっていく。その真ん中で、細い腕に抱かれた人形少女のコランダミーがえへへと笑っていた。コランダミーはぱちくりしているキリウに気づくと、自分を抱いている人を指して紹介してくれた。

「神様だよ!」

「うわあぁ~~、ここで神様はやめてぇ~~!」

 聞くなり『神様』とやらは顔を真っ赤に染めて、悲鳴混じりに何やら言い出したが、もう見てられない。へにゃへにゃと世界が歪む音がしていた。猛烈な既視感に襲われたキリウは、まったく意味が分からないのに自分の方が恥ずかしくなってきて、今すぐ列車が来たなら線路に飛び降りてしまいそうだった。

 あぁ、ごてごてと飾りを乗せた髪をばさっと掻き上げて、ごまかしきったその人がキリウに向き直る。濃い目の化粧の香りがふわりと漂い、高いカカトが地に落ちた白い虫を踏み潰していた。彼女は嬉しそうにキリウを見て、咳払いをして尋ねた。

「あなたが今の持ち主さんなの?」

 余裕が無かったキリウは強度のオウム返しをしそうになったが、浮かれっぱなしのコランダミーが我先にと答えてくれたので、オウムだと思われずに済んだ。

「あのね、おともだちだよ。キリウちゃんだよ」

「おっと! デリカシーが無かったかな。良い関係だね~」

「うん。えっとね、お母さん、あのねあのね」

「お姉さんね! お姉さんだよ!」

 どっちも真っ赤になってるせいでどっちなのかは知らないが、なんかまた世界が歪んでいた。

 それにしてもお姉さんだかお母さんだか、神様だかミッチェル君だか、結局のところこの女がコランダミーの何なのか、キリウにはまるで分からないままなのだ。少なくとも悪人ではないかも、と気が抜けかけたキリウの腕の中で、しかし抱えっぱなしのトランがいよいよ暴れ出していた。それは怒っているようにも見えたが、どちらかと言うと……。

「とりあえずさぁ、ウチ帰ってからにしよ!? おいで、コランダミー、おいで」

「おーい、みっちゃん、こっちの少年はどうすんだよ」

「うん、入れたげてよ。ねえ、お友達さん、時間大丈夫だよね!?」

 よそ見をしていたところに急に声をかけられて、虫のように顔を上げたキリウは、次の瞬間には正面から注ぐ熱い視線に全身を射抜かれていた。薄い色の瞳をきらきらと輝かせたその人は、キリウの空いている方の手を勝手に握って、勝手なことをべらべら喋っていた。

「コランダミーの話、いっぱい聞かせてよ! や~~、フィードバックどしどし貰えると嬉しいよぉ~~」

 キリウは反射的に頷いてしまったけれど、ここで首をどっちに振ろうが以後の出来事は一切変わらなかったのではないかと、今となっては思うのだ。