「お客さん、それ冗談で言ってるんですか? もしかして或田教授のお知り合いですか?」
大家のババアを振り切って飛び込んだ個人タクシーの運転手に、銀色のリンゴの話をグチグチこぼしていたら、キリウ少年はそんなことを言われて困った。
「なんて読むんですか?」
「え、しらばっくれるんじゃないよ。それって或田(アルタ)さんのところの新作でしょ。一般流通はまだのはずでしょ。今朝のニュースでやってたでしょ、それ」
「知らないです」
そして運転手の中年男は無線機を手に取ると、スキャットを始めた。切片~切片~切片片~……数学的な響きがあって眠くなる。けれどルームミラー越しに運転手の顔を見たキリウは、少し嫌な予感がした。そいつの顔の構造に生理的嫌悪感を覚えた。
「本当に知らないの? 本当? うわあ~ニュースくらいチェックしておきましょうよ、人は孤独で死にますよ」
「そういうのねえ。三日前の新聞拾って読む程度で」
「受験生のいないお宅は能天気でいいですね~」
そんなフェティシズムの話をされてもなあ、とキリウは窓の外を向いた。
街灯の少ない日陰者の街が、夜の最底辺へ真っ直ぐに落ちていく中を、デリカシーの無い個人タクシーが走る。そういうのが生きていける程度に、この街は広かった。がれきの地平を越えて、列車の貨物以外の扱いで車が他の街へ行くことは、現状物理的に不可能であるから。
銀色のリンゴの素性はともかく、キリウが不審がりながらもう一度ルームミラー越しに運転手の顔を見ると、そいつは白目をひん剥いていた。けれど客に見られていることに気づくと、何事もなかったかのようにそれをやめたから、キリウは運転席の裏に蹴りを入れた。
鏡の中の男が、顔を引きつらせて相変わらず口走る。
「ね、ねえお客さん本当に銀色のリンゴのこと何も知らないの?」
「知らねえ」
キリウが適当に走ってくれと頼んだにも関わらず、先ほどからタクシーは明確な目的を持っているかのようにどこかへ向かっている、そんな気がした。運転手は白目をひん剥いていたことについて必死に、これは部分痩せのストレッチだと弁明していたが、別に運転手の目は腫れぼったくなどない。だいたい、接客の前に個人のコンプレックスなど関係ない。
「お金そんなに持ってないから、もう降ろして」
「いいんですか!? 客の前で白目ひん剥いた巨悪を放置していいんですか!? 今ね、警察向かってますからね、そこまで着いてきて私を突き出してくれてもいいんじゃあないかな」
こんな街の警察は八百屋が兼業でやってるから、その程度の不良中年にかまってる暇なんか無いのに、何を言ってるんだとキリウは思った。
しかしキリウはドアに手をかけて、ふと気付いて語気を荒げる。
「……おいカギかけんな! 降ろせバカ!」
「降ろすかバカ! 警察突き出しちゃるわリンゴどろぼ~!!」
そして、運転手にそう思われていた事実にたいそう深く傷ついた。けれど傷つくくらいなら傷つけてやる、そんな気持ちで、肉を切らせて骨粗鬆症へ追い込むのがイイ男。また一歩男前に近付いたキリウは、運転席に無理矢理飛び込むと、クラッチペダルをもぎ取った。
夜の道路の真ん中でエンストした箱に詰め込まれて、悲鳴だか笑い声だか判らない声が、ごちゃ混ぜにくぐもっていた。