149.庭師
わぐうううう。わぐうううう。
キリウ少年は死体安置所に並んだ台の上に仰向けに置かれている。その傍でミッチェル君が、ぽっかり空いたふたつの眼窩から煙を噴きながら、キリウの顔を覗き込んでいた。落ち着きなく震える彼の指が、開きっぱなしのキリウのまぶたをそろりそろりとなぞっていた。
ミッチェル君が何か呟いたようだが、どこからか響いてくる呻き声のようなものに掻き消され、かれ自身の耳以外には届かない。やがてミッチェル君の親指の先が、キリウの目頭にぬるりと沈み込んだ。ミッチェル君はもう片手でキリウの頭を押さえ、まぶたの中に入れた指に力をかけていく。
そうしてかれが、幼い頃に母親にされたようにキリウの目ん玉を引っこ抜いてしまおうとした時だった。重い音を立てて死体安置所の扉が開き、向こうから現れたのは、白衣を着たヤマテ氏だった。
「やめな」
ミッチェル君は悪戯がばれた子供みたいに飛び退き、みるみるうちに小さくなってゆく。やがて二十センチくらいになってしまうと、勢いよくヤマテ氏の靴の横をすり抜けて走り去っていった。
わぐうううう。わぐうううう。呻き声は扉の外からしていた。ストレッチャーを引いて部屋の中に入ってきたヤマテ氏は、キリウを見下ろして申し訳なさそうに言った。
「どうかゆるしてやってくれ。あの子はキミの赤い眼が欲しかったんだ」
ヤマテ氏は微かに煙のにおいがする手で、キリウの飛び出した眼球を押し込んでまぶたを閉じる。張りのない薄い血が、青白いキリウの顔を流れ落ちていった。ヤマテ氏は患者着に包まれたままのキリウの身体を抱えてストレッチャーに乗せると、赤いリボンで厳重に縛り付けてから運んでいった。
死体安置所の扉をくぐって出た先は、いきなり広大な庭園だった。赤と青のアジサイが祝福するように咲き乱れ、レンガの散歩道をもさもさと囲んでいる。刈り込まれた庭木の隙間で哲学する白い虫たちもまた、正視すると気持ち悪いところを除いては、そういう類の花のようだった。
日光を湛えた池の中から大きなナマズが顔を出し、「わぐうううう」と鳴いた。アイデンティティに目覚めたナマズの声だ。この箱庭では誰もがそれを望んでいた。
「キリウ君は大量の天使の羽をノドに詰まらせて、ショック死したんだ。身体の中が、天使の羽でいっぱいになってたって聞いたよ」
ヤマテ氏は前を向いたまま、ストレッチャーの上のキリウに話しかけた。ゆっくりはっきりとしたヤマテ氏の喋り方は独特で、彼自身の強引な人間性とは対照的に、聴く者の心を落ち着かせる。ラジオパーソナリティとしては一定の人気があったに違いない。
ぽかぽかとした陽だまりの中で、死斑が浮き出たキリウの手足だけが冷たかった。その歪な光景を空から見つめる黒い影があった。
「なあ、おれの声はまだキミに届いてるかな。おれは、ドクターに言われてキミを探しに来たんだ。彼女はキミがまだ死んでないって言うんだからね」
――困ったように笑うヤマテ氏の頭の後ろ側で、ロックギターを抱えた少女が悪魔の翼を広げて逆さまに浮かんでいたのだ。限りなくコウモリに近い顔をした彼女は、あどけなさが残る頬に好奇心を乗せて、キリウを上下逆さまに観察していた。屋上から突き落としてもぴんしゃんしていたキリウが、いったいどうやって死んだのかが気になるのだろうか。
ゆっくりと降下していく少女は、やがて丸っこい庭木の天辺に頭から突き刺さって動かなくなった。震えた枝葉の下から数匹の白い虫が飛び立ったが、三角のシルエットは背中の直線上で自らの左右の翅どうしをぱちぱちと打ち付けて、いつ砕け散るとも判らないのだった。
超音波がほとばしり、怪電波がわななき、またナマズの声がしていた。ヤマテ氏が軽く俯き、キリウの死体に優しく語り掛ける。
「でも、そろそろ疲れちゃったかな。嫌になってしまったかな。もしキリウ君が望むのなら、おれはキミをドクターに届けずに、ナマズ様に捧げてもいいんだよ。ナマズ様は誰だって受け入れてくれる……どんな罰当たりでも」
ヤマテ氏は歩を緩め、キリウの上に落ちてきた白い翅を払い落とした。ストレッチャーの車輪に轢かれた翅は粉々になって地面に散らばり、いつか風になることを夢見ていた。風になって、遠くへ行って、白いがれきに還ってゆく。そんな当たり前の生命に憧れて、いつも夢を見ていた。
「なんてね。キミの思い出のひとつに過ぎないおれに、そんな権限があるわけない。おれの言葉も、キリウ君の中にあるものでしかない。ない。ない」
何の前触れもなく、キリウを拘束する赤いリボンがどくんと脈打った。いつの間にかリボンはどれもキリウの内側から出たものになっており、耳の中から手首から鳩尾から、キリウがどこかに行ってしまわないように縛り付けているのだった。
そうだとしても、どこからどこに? 今更キリウは地獄以外のどこにも行けやしないのに。それとも、ここから地獄に?
ヤマテ氏の言葉には徐々にノイズが混じってきていた。目を伏せたヤマテ氏のくちばしが伸び、髪が頭頂部からぞろりと抜けて禿げ上がってゆく。風になって、遠くへ行って……。
「ドクターはキリウ君を直してくれる。彼女はキリウ君を死なせない。壊れたら何回でも直す。それは彼女のエゴだけど……」
ストレッチャーを押すヤマテ氏の指には水かきが張り、爪も固く伸びて尖っていった。背中には白衣の上から甲羅を背負っていた。
次に顔を上げた時、その青年は明るい髪色をそのままに、透き通るような緑色のカッパになっていた。
「明日は水曜日だ。おれはまたマイクの前で、おれの声を聴いてくれる皆にエゴを押し付けて、それを愛と呼ぶしかないんだ。おれは大人になりたかったよ」
ざらついた声はなお、くっきりとした輪郭を持って鈴のように響くのだった。
庭園は奥へ進むほどに混迷を極めていった。アジサイの赤と青は毒々しい程の原色となり、ガクも十枚に増えていた。剥き出しの白いがれきの上には、人間の脚や肘から先だけのものや、ウサギ・オコジョの尻尾などが散らばっていた。
その先に彼女はいた。燃えるような赤い髪をした彼女は、ひときわ背の高い真っ黒な木の根元を大きなスコップで掘り返し、大量の死体を埋めている真っ最中だった。作業着に身を包んだ出で立ちは庭師のようだった。
「キリウ君を連れてきました」
ほとんどノイズになったヤマテ氏の声に、煤まみれの彼女が振り返る。彼女はキリウを見るとおもむろに背筋を伸ばし、両手でスコップを握りしめて言った。
「ありがとう。わたしが直すから」
その言葉を思い出したキリウは目を開けた。
「――あの、あなたは」
キリウだ。言ったのは。驚いたように両目を見開く彼女に向かって、キリウが震える腕を伸ばそうとしたとき、手首から出ていた赤いリボンが弾け飛んだ。
――。
弾けるとともに、木漏れ日に満ちた空間は掻き消え、その先には真っ暗に焼け焦げた空が永遠に広がっていた。アジサイもカッパも消え、がらんどうになった世界は燃え上がる黒いがれきでいっぱいになっていた。
――。
彼女の向こうにそびえ立つのは黒い電波塔だ。燃えるような赤い髪をした彼女は、ひときわ背の高い真っ黒な電波塔の根元をスコップで掘り返し、吐き気がするほどの生命を処理している真っ最中だった。
ひっくり返る。ちぎれたリボンにうずまって、キリウはまた闇の底へと落ち込んでゆく。
ああ、また夢だ。いつも夢を見ているのだ。