キリウ少年は翅の無い害虫だった。
ベランダで栽培されてるプチトマトをむしって、プランターのふちに座って、両手で抱えて食べていた。大きすぎてうまく食べられなくて、まるでスイカをそうしたみたいに、口元も手元もぐしゃぐしゃになっていた。そしたら壁の穴から毒ガスが出てきたから、慌てて跳んで柵の外に逃げた。
吸い込んだ毒で目を回してたら、柱に繋がれてる犬がいた。芋虫を食って吐いたバカ犬だから触りたくないし、キリウは無視しようとした。でもその犬に脚が十本あって、顔に目が無いことに気づいた時、キリウはそいつを思いっきり挑発した。
すると長い舌でぶっ叩かれた。転がったところを乱暴に咥えられた。次にそいつのアゴがぐわっと動いたかと思うと、ぎざぎざの歯がキリウの身体を噛み潰した。上を向いて、何回か噛み潰されて、呑み込まれた。
どうせ吐くくせに。明日には、コンクリートの上で干からびたグチャグチャのキリウを引っかいて、粉にしてしまうくせに。
キリウは赤い草原の真ん中で目を覚ました。細長い尖った葉先にぐるりと囲まれた視界の先には、薄い雲を浮かべた淡い青がどこまでも広がっていた。
死ぬ夢は自分の身に起こる変化を暗示してるのだそうだ。それも、変な方法で実質的な自殺をする夢は自分探しの終わりの願望なのだと、コランダミーが消しゴム占いをしながら言っていた。
変われるものなら変わりたかった。どこかで聞いたが、悪魔が変われないのは思い込みらしい。でもキリウは、どこでそんなこと聞いたんだろう。腹の上で目を閉じて丸まったままのトランを、邪魔してやらないように慎重に横にどかす。ようやく自分の身体を起こすと、群がっていた白い虫たちが転げ落ちていった。赤い絨毯に転がる虫たちは殊更白く、紙くずみたいだった。
コランダミーがはしゃぐ声がした。辺りには草以外に何もない。ずっと向こうに、黒ずんだ街の影があるだけ。遠くでサイレンが聴こえる。風がさらさらと鳴る。乾いた草が擦れ合い、電磁波の音がする。
『言いたいことは何も無い』
明け方にラジオで聴いた歌のフレーズが、ふいにキリウの頭をよぎった。
『伝えたいことは何も無い』
そこにはメロディーもリズムもあった。歌まで歌っているのに、詞はひたすらにそれだけを叫んでいた。胸焼けする嫌悪感を思い出す。血のように赤いリボンがのたうっている真ん中で、微かな甘い香りがしていた。
変われるものなら変わりたかった。自分を変えるには行動を変えればいい。行動を変えるには心を変えればいい。心を変えるには生まれ変わればいい。来世で会ったら街宣車で迎えに行こう。引きずり込んでタコ殴りにしよう。愛の言葉を街いっぱいに叫んで、忘れられない傷をつけてあげよう。
変われるものなら変わりたかった。
ウジウジしたくなかった。落ち込みたくなかった。黒い太陽が作り出す陰の中で一日中自分の生首を見つめていても、正気でいたかった。何にも依存せず、全てを失っても平気な心が欲しかった。むしろ自分から捨てることすら恐れたくなかった。キリウは他人にそうするのと同じくらい、自分に対しても無慈悲になりたかった。
まとわりつく白い虫たちを払って立ち上がり、キリウは草むらを蹴り分けて、虫たちを踏み潰しながら歩いていく。コランダミーはすぐそこにいた。ふざけた草原の真ん中で、ありえないほど可憐なコランダミーが、嘘みたいにきらきらした顔で駆け回っていた。膝を隠すスカートが風にひらめき、細くて真っ白な手足が踊り、鮮やかな赤い海に眩しく映えていた。
ああ彼女は人形なんだ、とキリウは思った。
彼女を追いかけるキリウの脚は自然と速くなっていた。その華奢な背中に飛びつこうとして、でもルール違反だからやめた。近くで立ち止まったキリウをコランダミーが振り返る。
コランダミーは何も言わずにキリウを見ていた。透き通るガラス玉の瞳が七色の光を湛えていた。キリウもじっと彼女を見て、両手を前に出して尋ねた。
「ぎゅーってしていい?」
少女は驚いたような目をして、次に満面の笑みでうなずいた。
「うん!」
人形であるコランダミーは心からそれを望んでいたのだ。
白い虫たちが舞う中で、キリウは頭ひとつ小さい彼女をそっと両腕で抱きしめた。彼女も短い腕でキリウをぎゅっと受け止めた。彼女のひんやりとした身体に、布越しのキリウの体温が移っていく。厚手の服に包まれた彼女は、ぬいぐるみのように柔らかかった。
薄い色をした髪に頬を撫でられながら、キリウはこのまま彼女を壊してしまおうだなんて、思わなかった。
そしてコランダミーの背中から飛び出した天使の翼が、キリウの腕の隙間を抜けてぎざぎざの牙を剥いていた。次の瞬間には、今日ここに在る何よりも真っ白な翼が、虫たちもろともキリウを呑み込んでいた。