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140.職務放棄

 耳元で、線路と車輪が激しく擦れる音がしたけど、気のせいだった。

 いつだってそうだ。何が嘘で何が本当なのか分からないし、それ以前に、自分が何党なのかさえも分からないのだ。ただひとつ確実なのは、あんたには自分の誕生日を祝ってる暇さえ無いのだということ。

 ずっとここに座っていたはずのキリウ少年は、もっとずっと前から自分がそうしていたことを思い出した。そして忘れた。

 夜明け前の空の青さだけが照らす薄暗い列車内は、死臭に満ちている。辺りは死体だらけで、壁も天井も血飛沫で余すところなく彩られていた。まるでこの車両に怪物が入ってきて、乗客を片っ端から食い散らしていったかのように。

 床と座席じゅうを埋め尽くす白い虫たちの死骸さえも、赤黒く塗りつぶされて、紙くずみたいに転がっているばかりだ。彼らは、お馬鹿なキリウに愛想を尽かして一匹残らず死んでしまった。

 ボックスシートの正面では、血まみれのジュン少年とコランダミーがもたれ合っている。がれきの上に落ちたせいで、かつては半壊状態にあったジュンの身体には、今は継ぎが当てられていた。コランダミーが繕ってくれたのだろう。羽の無い彼女はソーイングセットを抱えたまま、ぐったりとジュンに寄り添い、小さな寝息を立てている。

 安らかなふたりの顔を、キリウはここでずっと眺めていたのだった。飛び出した頭の中身で汚れたジュンの白い髪が、青い光の中で、ほんのり輝いて見えていたのだった。

 ――デリカシーに欠ける行為だと分かってはいた。でも、美しいから見ずにはおれなかった。振り払うように、キリウは席を立つ。シートに山と積もっていた虫の死骸が、連られてぼとぼと落ちていく。

 車輪の音だけがこだまする中を、キリウは列車の後方に向かって歩き始めた。前の車両に続く扉は溶接されていて開かないし、何より、ここはキリウの居場所じゃないからだ。

 死者でいっぱいの列車は、湿っぽくてひんやりとした車内の空気と相まって、墓地か棺桶のようだった。席は余さず死体で埋まっていたが、キリウの知っている顔はひとつも無かった。

 トランはどこだろう。二つほど車両を移動した頃、キリウは必然的にトランの姿を探していた。コランダミーがいるのなら、トランもいるに違いない。けれど通りすがりに探したくらいでは、小さなトランは見つからないかもしれない、とも思っていた。

 植物の種にも似た黒い複眼。四つほど車両を移動した頃、キリウは靴をひっくり返して虫の死骸のかけらを出した。ぱりぱり砕ける翅の感触が、いつまでも靴底に残っている気がしていた。

 八つの車両を移動した頃、キリウは壁に描かれた巨大な目と出会った。誰かが黒いスプレーで描いただけの目は、むしろ深淵から積極的に見つめてくるまでのポテンシャルを秘めており、キリウを視線で殺そうとしていた。

 リンゴの生きる権利が認められたことで有名な、通称アダム裁判。十六も車両を移動した頃、キリウはカットされたリンゴが並んだ皿が置かれている座席を見つけた。この場所に不釣り合いなほどみずみずしいそれは、血を浴びていてなお、切ったばかりのような甘い香りを漂わせている。

 キリウは思わずリンゴに手を伸ばして、ひとつ食べた。

 ――床が軋んでいた。三十二番目の車両で、キリウは誰かに足をひっかけられて転びそうになった。なんてことはない、通路に足がはみ出している男の死体があっただけだ。

 ムカついて覗き込むと、しかしその死体は殊更に酷い状態だった。身体は力任せに掻っ捌かれたみたいにズタズタだし、乾きかけの臓物がシートじゅうにぶちまけられている。頭も獣に食い荒らされてしまったかのようで、どんな顔をしていたのかすらも分からない。

 同時に、キリウのすぐ近くで何かが動いたような気配がした。それはまったくの気のせいだったが、実際のところ、ちょうど向かい側の席にトランがいたのだ。

 キリウが見つけたトランは、見知らぬ少女の膝の上で丸まっていた。骨精霊が眠る生き物であるかどうかはともかく、この時のトランは大きな一つ目をぴたりと閉じて、穏やかに眠っていた。

 だめじゃんか人様の膝の上で。そう思ってキリウはトランを回収しようとするも、ふと、少女の屍を前に手が止まる。キリウより一回りくらいは年上なのだろうか。彼女の死体もまた、向かいの男ほどではないが凄惨な有様で、傷つけられた頭がとても痛々しい。

 でも、そういうとこじゃなくて……。

 ……わからない。どこか迷子のような顔をした彼女の頬にそっと触れて、キリウはその場を立ち去る。ただ、トランをここに置いといてやったほうがいいような気がしたのだ。

 そうしてずっと分からないまま、何が分からないのかも分からないまま、キリウは歩き続けていた。今までもこれからもそうなのだと思っていた。

 やがて六十四両目の末尾のドアを開けた時、剥き出しの連結器が現れて、列車は終わった。キリウの前にはどこまでも続く線路と、朝焼けと、真っ白ながれきの眩しさが広がっているだけだ。転がり出た白い虫たちの死骸が猛烈な勢いで吹き飛び、冷たい風に溶けていく。

 ここより後ろには何も無い。どこまで行ってもキリウが探してるものは無いし、そもそもキリウは何も探してない。

 手を引かれるように、背中を押されるように、キリウは一歩前に出た。躊躇うことなく更にもう一歩を踏み出して、流れる線路に身を投げた。