16.エドガー・サウサー
少年…エディは、サムの訓え(おしえ)にしたがい、トレーニングを繰り返した
決して弱音は吐かなかった、この少年の過去よりも辛いものが、この世にあるだろうか
神すら見捨てたこの子は、誰よりも強く育つ、サムはそう信じていた
「おーい、エディ、そろそろ昼食だよ」
「もう少しで最後のセットが終わるから少し待っててよ」
「ずいぶん厚かましいやつに育ったなあ、うん」
サムのほころんだ頬は、嘘をつけない類の人のそれであった
少年がジムに来てから3ヶ月がたった
ジムの外では植え込みのハナミズキが咲き誇り、スクールボーイたちが物見がてらに覗き込んだりもしたが、エディはミットを叩き続けた
サムが栄養を管理し、しっかりと食事を与え、密度の濃い運動を行った結果、少年の周りを取り囲み、死を今かと待つ病魔の死神は、春風とともに彼方へと消えていった
6ヶ月…9ヶ月…
エディは休むことなくトレーニングを続けた
強くなりたかった、サムおじさんのような、強い人になりたかった、ただそれだけだった
サムおじさんが誇らしかった、他にどんな幸せがあろうか、こんな格好いい人が、ぼくの側にいるだけで、ただ、それだけで…
「そうだエディ、そろそろ俺とスパーリングをしてみるか、実を言うとな、エディにはかなり実践的なボクシングのメニューを与えていたのだ」
サムは腕組みをし、目をつぶりなにかの考えがまとまったかのように頭を振った
「一番強くなるんだから、なんだってやるよ、サムおじさんより強くなるよ」
少年の目は、過去の暗く窪んだようなものではなく、明るく光る、サファイアのようだった
「よっしゃ、じゃあリングに上がってな、ボクシンググローブは一番ちいちゃいのをつけてな、ほらバンデージ巻いてあげるからこっちにおいで」
痩せ身に引き締まった腹、やや薄く肋(あばら)が浮き出ているが、絶え間ない努力がその上に層となって身に付いていた
「ボクシングのルールを教えておこうか、まず、お腹より下は叩いちゃダメだ、男なら分かるだろう?」
うんうん、と少年は頷いた
「脚も攻撃しちゃダメだよ、あとは、噛んだりもダメ」
うんうん
「トレーニング中にはサンドバッグを蹴ってもらってたけど、ボクシングは蹴っちゃダメだからね」
うんうん
「こんなところだね、1ラウンド3分、スパーリングだから、5ラウンドまでにしとこうか、覚悟はできたか、エディ」
うんうんうん、少年は頷いた
「よしっ、じゃあ、ゴングはタイマーでセットしておくから、俺もグローブつけちゃうからね」
こうして、初めて、人との闘いを経験した
「ハァ…ハァ…」
「どうしたエディ、全然パンチが当たらないぞ、パンチはただ打つだけじゃダメなんだ、体をひねって、身体ごと打ち込むんだ」
「ハァ……ハァ…わかったよ…」
汗がリングに雫となって落ちる瞬間、シューズのカカトが摩擦音で高い音を出す
ボスッ
「う…ぐっ…中々本気じゃないか…やっぱり才能あるな…」
サムは小声で呟く、エディに聴こえないように
4つの脚がリングで踊りだす、ウサギとイーグルのワルツのように
「ハァ…ハァ…、やっぱり…サムおじさんは速い」
少年は一度も叩かれなかった、それはサムの心遣いであろう
大人に手を出される恐怖を与えたくなかった、親の心
大人へ慣れて欲しかった、自分なりの不器用な触れ合い、リングの上でしか表現できない自分の、サムの愛情表現
エディの中に、エドガーの片鱗がチラつきはじめた