非実在電波天体キリウ君

 時にキリウ君の弟は、繊細さが服を着て歩いてるような心持ちをしていることがあったが、キリウ君は彼のそういうところを特段にどうと思ったことは無かった。そういう時期の弟の言動ときたらまるで世界に怯える思春期のハリネズミで、なんていうか面倒くさい妹のようだと知人男性から言われたこともあったが、キリウ君はただ薄笑いを浮かべていた。キリウ君が愛想笑いをできるかというとできなくて、その時はただ、ぼんやりしていると口が自然と微笑んでいただけだった。

 もっとも同時にキリウ君には、弟はある程度までなら無条件でかわいいのだという、刷り込みに近いものもあった。そいつの甚だ面倒くさいところは置いといて、基本的には人並み以上の情をもって接していたと言えた。それはキリウ君たちの生まれ育った環境によるところが大きいのだが、そんなことはどうでもいい。

 とにかくキリウ君は、弟に呼ばれれば入浴中でも跳び出していってアイアムゴッドと叫びながらゴキブリを叩き潰してやったし、嫌なことがあったとかで家事当番をすっぽかされても、それ自体を忘却することで根に持たず赦していた。それはきっと、どんなに最悪の場合でも「ぼくの身代わりで出頭してくれ」とは絶対に言い出さないだろうという、根拠のない信頼があったからだ。いや、そうであってくれという願望にすぎなかったのかもしれないけれど。

 ある深夜未明のこと、キリウ君は特に理由もなく寝ていなかった。そして特に理由もなく、窓から黒い空を眺めていた。星は一つも見えなかったが、近所のアクセスポイントや空の気象レーダーからくる電波を感じていた。そこへ寝間着姿の弟がやってきてこう言った。

「嫌な夢を見た」

 何も聞かないのにキリウ君が視線を向けたせいで、弟は勝手に話し始めた。

「ぼくは世界の果てを探していたのに、どこにも無かったんだ」

 弟が両手で顔を覆って長い息を吐いたので、それが深呼吸だとキリウ君にもわかった。彼の親指には、ちぎれたささくれの乾いた血がこびりついている。キリウ君は、こーいうの本当にどうすりゃいいんだよと思いつつも、本当にそう言い放つほどには鬱陶しくも思っていなかった。いつもより小さな弟はこう続けた。

「世界の果てを見たいんだよ、キリウ」

 どこか捨て鉢な声だった。目は荒野。拗ねてる時に鏡を覗き込んだのと似てる、とキリウ君はぼんやり思った。

 諦めた。キリウ君はトータルでは薄情なわりに、ときどき頼みごとをされると弱いのだった。正面から何かを頼まれると、格好つけて引き受けてしまうのだ。もっとも今のこれは、頼みごとの体をせず暗に強要しているとも取れたが、赤の他人ではない弟ならばギリギリ頼みごとの範疇だと言えた。

 初対面同然の相手からでも、土下座して頼まれると電車賃を渡してしまう。たとえそれが、返済のためにどんな無理難題をふっかけてやろうという邪悪な心から出たものだったとしても、キリウ君はそういう少年だった。

 

  *  *  *

 

 なじみの海にいた。春先の風の日に散歩をして、砂まみれになったことがある海岸だった。夜明けのまだ遠い、真っ黒な海を前にしていると、潮風の磯臭さが日中よりも濃く感じられた。

 キリウ君が両腕を広げて示しても、弟は顔をこわばらせたままだった。そしてキリウ君が口を開くよりも早く、きっぱりと却下した。

「これは果てじゃない」

 波の音にまぎれることもなく、そのくせ消え入りそうな声だった。少しの間があって、キリウ君は空色の髪ごと頭を掻いた。これでごまかせると思っていたわけではないが、こうも冷淡な反応をされると、もともとない愛想が全部なくなりそうだった。

 仕方なくキリウ君は、弟の腕を掴んで、ぴょんと跳んだ。

 北の極にいた。ただ探されるためだけの極星が頭上にあった。キリウ君にとってはそうだというだけで、船乗りならばリスペクトしたはずだ。ただ北にあるというだけでだ。そう。しばらく待っていたら、全部の星が周りを回るのが見られるはずだった。眼球を長時間露光してそれを見られたらよかったのになと、キリウ君は残念がった。

「これも果てじゃない、だろ」

 寒そうに弟がまだ言うので、キリウ君はその腕を離さないまま、もう少し遠くへ跳んだ。

 月にいた。自分は夢の中で来たことがあるが他の人はどうなのだろう、とキリウ君はとなりの少年の顔を窺った。彼は硬い表情のまま、確かめるようにスリッパの底でレゴリスに線を引いていた。やがて黒い空に浮かぶ一番近い恒星の存在に気づくと、それを指で差してぽつりと呟いた。

「お日様が見える」

 それから、その指の形のまま辺りを少し探して、先程まで自分たちが立っていた惑星に向けて続けた。

「――ぼくたちが住んでる場所も。果てって感じではない、よね」

 言われてみればそうなのかもしれなかった。お日様に手の平を翳してみると、確かにそれが放射するあたたかみをキリウ君は感じた。地上で感じていたよりもいくらか刺激的で、眼球の内部に染み込んでくるようだった。

 にわかに覚悟を決めたキリウ君は、ふらふらしている弟の腕を掴んで、さらに遠くへ跳んだ。今日はもう、跳べるだけ跳ぶつもりだった。

 三回半跳んだだけで、なんと星系の外縁部まできた。思ったより跳べるものだ。漆黒の宙に点在している氷の塊がわずかな電磁波を反射しており、辛うじて知覚できていた。想像以上に暗くて何も見えなかったので、キリウ君は、ポッケに入っていたペンライトを点けた。カチッという、この場で一番確かな音と共に可視光が灯った。

 二人が立っていたのは、ガスが凍ってできた塊の上のようだった。小さな光の中の弟は、いつもより青白い顔をしていた。

「まだ果てじゃない。うまく言えないけど」

「言えよ」字面よりも優しい声でキリウ君は。

「重力を感じる」

 ここで言う重力とは、お日様からくるそれを指しているのだとキリウ君は解釈した。少なくとも足元のこれや、光の速さでン日くらいのところにあるガス惑星からのもののことを言っているわけではなさそうだった。わざとそう曲解してやってもよかったが、意地悪をする気分ではなかった。

 キリウ君はふと、握ったままのペンライトを虚空に向かって振った。これを灯台だと思った誰かがいたら、いきなり消えたら困るかもしれないからだ。さらに、後から来た人の目印になればいいと思って、ポッケの底に溜まっていたティッシュの屑をばら撒いた。

「何してんだよ?」弟は跳ばないキリウ君に焦れている。

「後から来た人、困らせようと思って」照れ隠しで心にもないことを言った。

 呆れた顔の弟を引きずって、さらに十回は跳んだ。こんなにも遠くに跳べる脚が自分にはついているのだと、キリウ君はここ最近で一番の自信を感じた。同時に、さすがに何かが嘘なのだろうと冷めかけていた。それでも宇宙よりは少し温かかった。

 最後に二人が立っていたのは、どこのものとも知れない、ごく小さな小惑星の上だった。もう重力は感じなかった。糸の切れた凧みたいだ。辺りは真っ黒で、気が遠くなるほどの遠くに、数えられる程度の星が光っていた。

「ここは世界の果てじゃない」

「まだ星が見えるから?」

 幾度ものジャンプを経て、キリウ君は弟が何を言うかを推測できるようになった気がしていた。気がしているだけだし、そういう傲慢さをこそ弟は一番嫌がるのだろうが。

 キリウ君が見ている前で、弟は、ごつごつとした小惑星の表面にそっと腰を下ろした。まだ体温のある背中の半分の重みが、キリウ君の脚に預けられる。そして彼は膝に顔を伏せて、しばらくじっと黙っていたあと、顔を上げることのないまま呟いた。

「キリウがいたら、どこも果てじゃないのかも」

 そんなことを言われて、キリウ君は困った。やがて当然の結論として、一人で帰ろうと、弟から一歩離れようとした。けれど、ぎゅっと強く膝を抱えているようにも見える弟を見下ろして、自分は取り返しのつかないことをしようとしているのではないかとキリウ君は思った。

 キリウ君は意地悪をせずに、弟を現実に帰してやった。それから小惑星の上をぐるりと一周歩いて、本当に何も無いことを確認した。もう一度跳んだら、次はどこにも着地できない気がした。そして自分自身も、現実へと帰っていった。

 

  *  *  *

 

「(そんなことがあった。俺は弟の望みを叶えられなかった)」

 キリウ君は、昔のことを考えていた。もうずっと昔のことだ。ピコンピコンと電波を放ちながら、そして特に理由もなく、ぼんやりと黒い宙を眺めていた。これまでもこれからも、何百万年もそうしてきたように。

 あれからキリウ君は、少なくとも弟から見えないところへ身を隠そうとした。けれど、自分の存在をなくしてしまうことには耐えられなかった。だから、肉眼で見えない電波天体になった。そして宙の端っこから、こっそり弟を見守ることを選んだ。

 パルサーから見れば人間の寿命なんて一瞬だ。弟を見ていることができたのはほんのひと時だったけれど、キリウ君の魂は星よりもずっと小さいままだったから、それを人並みに大切にできた。

 とはいえそれは、あくまでもパルサーになったキリウ君から見た時の話だ。本当のところ、弟がどう思っていたかは永遠にわからない。魂は小さいままでも、キリウ君はありえないほど高密度な星になってしまった。星から見た人間が何を考えているかだなんて、わかるはずもなかった。

「(俺の弟は何色だったんだっけ)」

 もはや弟が何だったのかもよくわからなくなったが、ただ弟がいたことを覚えているから、キリウ君はまだキリウ君だった。二秒に一度電波を放ちながら、キリウ君は、暇だからブラックホールでも流れてこねーかなと思っていた。あるいはそこに世界の果てがあるのかもしれない、とキリウ君は今も少しだけ気にしていた。