空売り

「たとえ投資や投機に興味が無くても、空売りというものの存在自体は絶対知っておいた方がいいとオレは思っている。例えば金融商品が大暴落するような、田舎者どもからすればざまあみろ的なシチュエーションにあっても、貴様の想像に反して、実はボロ儲けしてる誰かが存在する。そこに思い至れること自体が重要なのだ。善悪と損得を気分で関連付けるものではないということだな」

 知人男性がほろ酔いでそう巻いているのを聞いて、キリウ君は、とりあえず、空売りというのをすればよいのだなと思った。

 空売りというのは、これから価値の下がるものを借りて売るという信用取引だ。信用取引とは、キリウ君の理解によれば、信用を元手に借りたものを使って取引をすることだ。

 とはいえキリウ君にはなんの信用も無かった。だいいちキリウ君はガキだし、保護者だとか定職だとか以前に、実在しなかった。そんなだから、誰もなにも貸してくれなかった。最寄り駅から徒歩三十分のアパート、明後日の天気、義父の余命、リサイクル業者としてのあの子の評判。おばあちゃんから輪ゴムの一本すら借りられないのだから驚きだ。キリウ君は自分の信用の無さに照れ笑いした。するとその顔がかわいかったので、通りすがりの河童がキャベツを一玉貸してくれた。

 やったよ! 俺にも何かを借りられるだけの甲斐性があったよ……! あまりの嬉しさに、キリウ君はそのキャベツを神棚に飾った。これに手を付けると祟りがあることにしよう。

 色々とどうでもよくなったキリウ君は、自分の存在自体を空売りすることにした。

 キリウ君が実在しているか否かはどうでもいいが、この場合、自分から自分を借りる必要がある。同時に、自分を自分に貸す必要があった。貸す側のキリウ君は厳正な審査を行い、当然、自分の信用が無さすぎるので却下した。しかし自分で自分を信じなければ誰が自分を信じるのか。そう思い直し、しぶしぶ承認した。ただしその代わりに、通常の倍以上の証拠金を求めた。すなわち、通常ならばキリウ君一匹につき脳味噌半分を求めるところを、脳味噌全部に加えて、キリウ君味噌(蟹味噌と同じなので説明は省略)も求めたのだ。

 こうしてキリウ君は、すべての味噌を担保に自分の存在を借りることができた。ますます甲斐性を感じて、キリウ君は跳ね回った。

 とはいえキリウ君自身の認識とは別に、客観的な話として、自分の価値がこれから下がると予想して空売りするような態度は一種の自虐と言えた。それが問題だった。そんな自信の無いヤツを買いたがる人なんていない。間もなくキリウ君は、自分を買いたがる人が現れなくて困った。

 買い手がつかないとはいえ、存在というものは放っておいても腐らないとキリウ君は思っていたが、そうではなかった。キリウ君が借りた/売ったキリウ君の存在は、日が経つごとに終末へと近づいていき、やがて二階から見た夕焼けの色に似てきた。存在より原罪に近い。

 どうすればよいかわからなくなったキリウ君は電話をかけた。よく見ていなかったが、相手は取引所だった。オペレーターは話を聞くとこう言った。

「貸し手と買い手が同一人物というケースは時々あるんですよね。三年前、シルクロードより西で、自分に自分の膝小僧のかわいさを三億円で売った男性がいます」

 かわいさという言葉に、キリウ君はかすかに対抗心を燃やして訊き返した。

「それで?」

「歳をとるにつれ、かわいさが爆発しまして」

「それで?」

「追証が払えず、無事に生きたまま散骨されました」

 キリウ君は取り乱した。

 詰みと罪は似ている。動転したキリウ君は、自分を積んだ。積む側と積まれる側が同じなので、無限ループが発生し、足元が無限に沈んでいった。穴があったら入りたいとはこのことだ。

 しかし実際のところ、それは文字通りキリウ君の存在を下げていた。空売りならば、下がれば下がるほどにキリウ君は得をするはずなので、一見すると合理的な行動に見えるかもしれない。けれど誰も買ってくれないなら意味が無いのだ。下がりきったところでキリウ君は、ようやくリアルワールドの問題と向き合って少し泣いた。穴の中なら誰にも見られないので、泣いてもかまわなかった。

 それからキリウ君は、突き破りかけた重力面から気合いで這い出したが、その頃には二目と見られないズルズルのひも状になっていた。おかげで今度は、ひも状になった身体を元に戻すことに週末を費やさなければならなかった。ただでさえ、はやく自分の買い手を見つけなければ味噌を全部取られてしまうのにだ。

 そうしてアフガン針を片手に一日中ちくちく頑張っていると、夕方ごろ、唐突に死がやってきて言った。

「私が買いますよ」

 本当に唐突だった。驚いて手元の狂ったキリウ君は、自分で思っている三倍くらい攻撃的に振り返った。

 そんなキリウ君を見下ろして、死はただそこに佇んでくるくると回っていた。キリウ君のギラギラした瞳の中で、死は円柱形であり螺旋状だった。赤と青だったら床屋のアレ(和製英語でサインポール)だな……とキリウ君は思ったが、ふと、自分が編みかけているひも状の自分こそが空色と赤色のそれであることに気付いて、よくわからなくなった。

「頭おかしいのか?」キリウ君は正直な感想を口にした。

「いえ。今が底値だと思うので」

 死は思いのほか低姿勢だった。しかし物腰とは裏腹に、こういう地雷そのものみたいな金融商品に手を出す危険存在でもあった。もっとも、死より危険なものは無いので、死としては自然な価値観なのかもしれなかったが。

 キリウ君はふと、今の自分の価値はどれくらいなのだろうと思った。実際のところ、キリウ君は空売りを始めた時点での自分の価値を確認するのを忘れていた。それからこれまでの通りに下がるところまで下がってきたので、そろそろタダ同然になったから、こうして買いに来る者が現れたのだろうか。

 でもよく考えてみてほしい、物理的に下がったからって値打ちが下がったら本物のバカではないか? そうだとしたら、もしかするとキリウ君の価値は、最初から死が言うところの底値だったのかもしれない。

「じゃあ、これから上がると思ってるってこと?」

 何の期待も無く尋ねたかといえば嘘だった。死はただ答えた。

「どちらかといえば優待が目当てですかね」

 それは遠回しに、上がることは期待していないと言っているのと同義だったが、キリウ君はべつに傷つかなかった。そしてすぐに、目下の問題を尋ねた。

「俺、あんたに何あげればいいの?」

「毎晩、今日もあなたが実在しなかったことを、報告していただければ結構です」

「そんなことでいいのか」

 売買は成立した。大方察していた通り、キリウ君は生まれてからずっと底値だったので、ただ取引所に手数料を取られただけだった。

 こうしてキリウ君は晴れてポジションを解消し、自分に味噌を絞り取られる危険も去った。そして新たに、死にポジションされる側になった。それはキリウ君に限らず、全ての生き物が等しくそうなのかもしれない。けれど実在しないキリウ君にとっては、少し特別なことだった。だから今日もキリウ君は、死に贈る季節のギフトを用意している。