2025大晦日
ある師走の日のことだった。カッパを探してドブ川のそばをうろうろしていたキリウ君に、突然雷が落ちた。少なくとも今日は何も悪いことをしていなかったのに、まるで罰が当たったかのように、真上から雷が落ちてきたのだ。当然キリウ君は黒コゲになってその場に倒れ込み、気を失った。
時を同じくして、ドブ川の反対側にもう一人のキリウ君が生成された。彼はドブ川の成分が雷のパワーで凝固してできた存在であり、見た目も中身もキリウ君そのもので、キリウ君と全く同じ姿をして同じ記憶を持っていた。
ここでは便宜上、彼を『沼キリウ君』と呼び、オリジナルのキリウ君を『本物キリウ君』と呼ぶことにする。(※なぜドブ川から生まれたのに『沼』であるかは『スワンプマン』を調べてください。)
沼キリウ君は倒れている本物キリウ君を見つけると、急いで彼の救護に当たった。汚れを払ってみると中身は無事だったが、バシバシぶっ叩いても反応が無い。なのでドブ川の水に頭を突っ込もうとした寸前、本物キリウ君が目を覚ました。
「うわっ!!」
本物キリウ君は驚いて飛び起き、ドブ川の水面と、そして辺りを見回した。この時本物キリウ君は、雷に打たれたショックで記憶を失っており、何が何だか分からない状態だった。
「な、誰!? おまえ誰だよ!!」
「俺はキリウ君だよ。おまえこそ誰?」
「俺がキリウ君だよ!! おまえなんか知らない!!」
ヒステリックに叫ぶ本物キリウ君を前に、沼キリウ君は戸惑った。しかしそれからパニックに陥っている本物キリウ君をなだめすかして話を聴くうちに、沼キリウ君は彼が記憶を失っていることを理解した。そのくせ彼は、自分がキリウ君であることだけは主張してはばからず、沼キリウ君をひどく警戒していたのだった。
迷った末に沼キリウ君は、すげえ面倒くさいな、しかし自分と同じ顔をした記憶喪失のバカを放っておいたらもっと面倒なことになるなと思い、本物キリウ君を自分の家に連れて行くことにした。
それからというもの、沼キリウ君は記憶の無い本物キリウ君と一緒に暮らし始めた。本物キリウ君は最初こそ、自分がキリウ君なのにお前は誰なんだとぶつくさ文句を言っていたが、日常生活すらままならないほどに自身が記憶を失っていることを自覚するにつれ、次第に態度を軟化させていった。事実、沼キリウ君の甲斐甲斐しさは、見ず知らずの他人に対するものとしては少し異常だった。
沼キリウ君は、本物キリウ君が記憶を取り戻すきっかけになればと、自分が好きなラジオ番組を一緒に聞いたり、好きなお菓子を持ってきてくれたりした。記憶は戻らなかったが、実際のところ沼キリウ君の好きなものは本物キリウ君も全部好きだった。しかしなぜそれで本物キリウ君の記憶が戻るかもと沼キリウ君は思ったのだろう? やはり沼キリウ君は、本物キリウ君のことを無意識に他人ではないと、なんなら自分のコピーだと悟っていたのかもしれない。
また沼キリウ君は、本物キリウ君を自分の友人たちに会わせたりもした。もちろん記憶喪失の本物キリウ君からすれば赤の他人ばかりであるため、本物キリウ君は渋っていたが、沼キリウ君がどうしてもと言うので、仕方なく会うことにしたのだった。
友人たちの反応は様々だった。
――ある少女は、ひどく混乱した。彼女は自分こそがキリウ君だと主張する本物キリウ君の必死さに何かを感じたようだが、しかし彼女に関する正しい記憶を持っているのは沼キリウ君の方であるため、結論を出すことができなかった。「何か困ったことがあったら相談して」と念を押した彼女は、とても心配そうに何度も二人を見比べて、逃げるように去って行った。
――キリウ君の双子の弟は、まーた兄が変なことになってるよ、と冷めた目で見た。一方で彼の連れ合いのロボット少女は、本物キリウ君と沼キリウ君の組成が全く同じであることを指摘した。しかし彼女が「双子でもジュンちゃん(弟)とキリウちゃんは違うんだよ」と付け加えたのを聞くなり、弟は見苦しいくらいにのろけ始めて、「どっちが本物か決まったら教えてよ」などとほざいて、足早に彼女を連れて遊びに行ってしまった。
――ある男は、オフの日で鬱気味のところへ会いに行ったせいで非常に不機嫌だった。玄関から出てきてやったのが精一杯の愛想だというほどに沈んだ表情をしたその男は、真っ暗な目で訪問者たちを見て、「片方殺してやろうか」と言い放った。本物キリウ君は面白くない冗談だと憤慨したが、男が片手に銃を下げていることに気づいた沼キリウ君に促され、慌てて逃げ出した。
――『オヤっさん』であると沼キリウ君が紹介した初老の男は、「なぁんかどっちも本物って気がするなあ」とぼやいた。本物キリウ君はにわかに顔を輝かせて口を開きかけたが、自分が彼を知らないことに気づいて黙り込み、苦悩し始めた。そんな百面相をしている本物キリウ君を一瞥して、沼キリウ君と顔を見合わせたオヤっさんは、ぽりぽりと頭を掻きながら、二人を夕食に誘った。
――両目の無い少年は、本物キリウ君が彼の顔を見てぎょっとしたらしいのを察して、何事かと思ったようだ。しかし沼キリウ君がすぐに本物キリウ君を紹介すると、声も匂いもまったく同じ存在が二つ在ることに、不思議そうに首をかしげた。「やっぱり二人は、見た目も同じなのか?」彼の素朴な疑問にキレそうになった本物キリウ君を、沼キリウ君が無言でどついた。
――先輩は、そっくりな二人を見て「株分けでもしたのか?」と軽口を叩いた。先輩に懐いている沼キリウ君がへらへらしているのを、本物キリウ君は不審がった。先輩が「べつに何匹いてもオレはかまわないぜ」と笑うのも、本物キリウ君からすればデタラメ極まりないことを言っているように思えたが、沼キリウ君はそれが先輩の包容力なのだと主張していた。
さて、本物キリウ君は、記憶をなくす前の自分は一体どこで何をしていたんだろうと、無邪気に想像していた。沼キリウ君が彼の友人たちに会わせてくれたことで本物キリウ君は、自分にもどこかにあんな友人たちがいて、そいつらが心配しているかもしれないと考え始めていた。
それに沼キリウ君のようにアルバイトをしていたなら、きっと職場の人たちにも迷惑がかかっているだろう。早く記憶が戻って元の生活に戻りたい、と本物キリウ君は願うようになった。もっとも実際には今、本物キリウ君が付き合っていた友人たちとは沼キリウ君が付き合っていて、本物キリウ君が行っていたアルバイトには沼キリウ君が行っているのだが。
キリウ君というのは実在しないので、身分証明書を持っていなかった。もし身分証明書があったなら、本物キリウ君は、自分が沼キリウ君と同一人物であることがわかったのに。ありもしない帰る場所を夢に見なくて済んだのに。
けれど、もしそうだったら、二人のキリウ君はいったいどうしたのだろうか?
* * *
「大晦日って、どっか行ったりしないのか?」
大晦日の日、本物キリウ君が尋ねた。沼キリウ君は答えた。
「んー、べつに? なに、どっか行きたいのか?」
本物キリウ君は首を横に振った。本物キリウ君は、なんだか落ち着かなくてそわそわしていた。何かしなくてはいけないような気がしていたからだ。しかしそれが、単に季節行事に対する漠然とした義務感なのか、それとも記憶を失っているにも関わらずなんとなく他人の家でくつろいでしまっていることへの焦燥感なのかは、彼自身にはわからなかった。
「あ、天ぷら買ってこなきゃ」
ふいに沼キリウ君が言った。本物キリウ君は、いつも通り「天ぷら? なんで?」と尋ねた。本物キリウ君が失った記憶の中には、常識に属する情報も多く含まれていた。自分がそうなってしまったことを自覚した本物キリウ君は、早々のうちから、文字通り全てを沼キリウ君に教えてもらうようにしていたのだった。
「蕎麦に乗せんだよ」
「それ夕飯?」
「夜食」
年越し蕎麦を夜食と呼ぶべきかどうかはさておき、沼キリウ君が外出の準備を始めたのを見て、本物キリウ君もついていくことにした。
外は寒かったが、二人ともキリウ君なので厚着はしなかった。散歩がてら街の中央部から離れて、川沿いの舗装された道を歩きながら、本物キリウ君は沼キリウ君がずっと他愛もない話をしているのを聞いていた。しかしなんとなく落ち着かない気分は消えず、ずっとうわの空だった。もっとも、普段からずっとうわの空も同然のパープリンのキリウ君にとっては、そのせいでパフォーマンスが落ちるといったことは一切なかったが。
ふいに舗装のコンクリートの上で、何かが動いたのが見えた。本物キリウ君が見ると、それは黒っぽいカエルだった。丸っこくてベタベタしてそうな、泥を固めたみたいなカエルだ。同行者のその様子に気づいた沼キリウ君が、一足先に近寄ろうとすると、カエルはばたばたと跳ねてどこかへ行ってしまった。
取り残されてその光景を眺めていた本物キリウ君は、自分も近寄ろうと歩き出した。しかしその時、頭上いっぱいの曇天がぱっと輝いた気がして、空を見上げた。
次の瞬間、猛烈な雷鳴が轟き、野太い稲妻が沼キリウ君に落ちた。
天気はさほど悪くなかったにも関わらず、周囲にも背の高い建物や街路樹がいくらでもあったにも関わらず、なぜか雷は沼キリウ君に落ちたのだ。息が止まった本物キリウ君の目の前で、沼キリウ君はマネキンのようにばったりとコンクリートの上に倒れ込んだ。驚いて駆け寄るも、沼キリウ君は全身黒コゲでぐったりとしており、本物キリウ君が呼びかけても全く反応しなかった。バンバン叩いて汚れを払ってみたが、出てきた中身もまた血の気の無い真っ青な顔で、ぴくりとも動かなかった。
慌てて誰かを呼ぼうと周囲を見回した本物キリウ君に、しかし背後から声をかけた者がいた。
「びっくりしたー。あんたら大丈夫?」
それは沼キリウ君2だった。沼キリウ君と瓜二つの姿をした、アナザー・キリウ君である。
沼キリウ君2は、唖然とした顔の本物キリウ君と動かない沼キリウ君の二人を見て、何がなんだかよくわからなさそうな様子だった(よくわからないくせに絡んでくるほどタチの悪いものは無い)。先に声を上げたのは本物キリウ君だった。
「おまえ、誰だよ!」
すると頭上で大声を出されたせいか、本物キリウ君の目下の沼キリウ君が、微かに呻いて身体を捩った。全身に付着していたコゲ残りがぱらぱらと剥がれ落ちるさまは、脱皮のようでもあった。慌てて本物キリウ君が顔を覗き込むと、沼キリウ君は焦点の合わない目で本物キリウ君を見返して、こう言った。
「な……何? だれ?」
「俺だよ、キリウ君だよ」本物キリウ君は心からそう答えた!
「う、ウソつけ。キリウ君は、俺……」
それを聞いた本物キリウ君は、ぞわっとした。数週間前、ほとんど同じ状況で、ほとんど同じことを自分が言っていたことを思い出したからだ。本物キリウ君は、沼キリウ君との生活を経たことで、今ではあの出来事に対して自覚的だった。
ならばおそらく、沼キリウ君も記憶を失ったのだろう。努めて冷静に対処しようとして余計に渋い顔になっている本物キリウ君に、沼キリウ君2が声をかけてきた。
「おい、本当に大丈夫か? 救急車呼ぼうか?」
「だから、誰だよおまえは!」本物キリウ君は遮るように叫んだ。
「俺? 俺はキリウ君だよ」
「違う、キリウ君は俺と、こいつだけ!」
本物キリウ君は沼キリウ君をかばうように上体を抱き抱えて、首を横に振った。
沼キリウ君2はますます困惑した顔をしていたが、やがて口をへの字にして肩を落とした。そしておもむろに沼キリウ君の傍らにうずくまると、沼キリウ君のウォレットチェーン(紛失防止用)を引っ張って財布を取り出した。
「触るなドロボーっ」
本物キリウ君が割って入ろうとしたが、沼キリウ君2はそれを肩でいなして財布を開き、中から三年前のおみくじ(吉)と記念コインを取り出した。握り込んだそれをまじまじと見て、沼キリウ君2は言った。
「これと同じものが、俺の財布にも入ってるんだよね」
今にも沼キリウ君2に噛みついて血を吸いそうな本物キリウ君を、沼キリウ君の手が弱弱しく制す。沼キリウ君は、沼キリウ君2を見上げて、掠れた声でこう尋ねた。
「お金も、同じ金額?」
「うん」沼キリウ君2が頷いた。
「すげぇ」
満足げに目を閉じた沼キリウ君の様子に、本物キリウ君は絶句しかけた。妬み、疎外感、あるいはさまざまな感情の入り混じったものが、これを看過してはいけない気持ちを急に湧き上がらせ、半ば惰性で叫んだ。
「スワンプマンの話をするのに、服とか所持品もコピーされるかどうかみたいな、クソどうでもいい話をしようっての!?」
「おまえ、黙れよ」
沼キリウ君2がとうとうため息をついた。沼キリウ君は、耳元で大声を出されたせいで気絶していた。本物キリウ君はもはや何のためにキレているのか分からなくなっていたが、何かを守ろうとする気持ちは確かにあった。
「殺してやるっ……」
引っ込みのつかなくなった本物キリウ君は、何かあった時のための包丁を引っ張り出そうと、沼キリウ君の荷物に手を伸ばした。暴漢には包丁だと沼キリウ君も言っていた。しかし沼キリウ君2の方が危機管理意識が高かった。沼キリウ君2は暴力の気配を感じるなり、すぐさま破壊光線(弱)を放ち、沼キリウ君ともども本物キリウ君を吹っ飛ばした。
心配すんな、粉みじんにはしないさ。ドブ川の中で動かなくなった本物キリウ君と沼キリウ君を見下ろしながら、沼キリウ君2は苦笑した。大晦日だってのに、なんだか二人もキリウ君を名乗るヤツが出てきて面倒なことになったな、と彼は思っていた。
今から沼キリウ君2は、倍になった財布の中身で三人分の天ぷらを買ってきて、そしてみんなでキリウ君の家に戻って年を越すのだ。自分ではない自分たちを回収するために、冷たいドブ川にざぶざぶと入っていきながら、沼キリウ君2は朗らかにそう思ったのだった。