キリウ君は、大根を買うことに決めた。大根は昆布といっしょに漬けるとおいしいし、焼いてもおいしい。そのうえ大きいから、置いておくと目印にもなる。この八百屋で買える全ての野菜の中で、いや、この商店街で買える全ての食品の中で、おそらく最も今のキリウの助けになるものだと直感した。

「これください」

 キリウ君は、大根を一本、スナップエンドウを一パック、そしてトマトを二個買った。今日は珍しく、どれも使い道がはっきりと頭の中に思い浮かんでいた。キリウ君の弟に言わせれば、使い道を決めずに食材を買うのは信じられないそうだが、確かに食べたいものがあって食材を買う方が主体的だと言えるのかもしれない。おかげでキリウ君は、マヨネーズを切らしていることにも気付くことができた。

 そうしてマヨネーズを探しにドラッグストアへ向かう途中、キリウ君は、商店街の真ん中にある歩行者天国へ差し掛かった。そこは通行人で賑わっているように見えたが、今日はいつもと様子が違っていた。ちょっとした、と形容するには多すぎるくらいの人だかりができていて、皆で何かを囲んで笑い声を上げているのだ。

 キリウ君は興味を持ってそばに寄ってみるも、人だかりの密度は高く、なかなか前に進めない。野次馬心が抑えられなかったキリウ君は、きょろきょろと周囲を探して、薬局の前に立っている丈夫そうなマスコットキャラの像によじ登った。ようやく確認できた人々の視線の先には、地面に開いた大きな穴があった。

 かなり大きくて深い穴だった。キリウ君は一瞬、地獄に通じる穴なのではないかと思ったが、それにしてはアメニティというか何というかを感じて首を傾げた。その穴は自然に開いたようには見えない綺麗な円形で、周囲は広告つきの金属製の手すりで囲われ、まるで昔からそこにあったかのような佇まいをしていた。

 しかしこんな穴は、先週来た時には無かったはずなのだが。何より奇妙なのは、商店街の人々がそうした穴を囲んで集まって、とても楽しそうに笑っていることだった。キリウ君は何がそんなに面白いのかと疑問に思って人々を観察していたが、高さが足りずほとんど中の様子がわからない。唯一判ったのは、人々が穴の底だけでなく、穴の周りのどこかも見て笑っているかもしれないということだけだった。

 マスコットの像から跳び下りたキリウ君は、自分だけあの穴の面白さが分からないのが寂しくなってきた。ここでは皆が笑っているのに、キリウ君だけが笑えていない。キリウ君は、自分が何か大事なものを見逃しているのではないかと疑った。何か、皆が知っている前提情報を知らないから、笑えないのではないか。キリウ君は、その何かを知りたかった。

 すると薬局から出てきたおばさんが、キリウ君に気づいて話しかけてきた。

「あなたも何か入れに来たの? 列はあっちだよ」

 キリウ君が振り向くと、ふくよかなおばさんが、キリウ君が持っている買い物袋を見て目を輝かせていた。おばさんはキリウ君がうろうろしているのを気にして、声をかけてくれたようだった。

 キリウ君は戸惑ったが、内容から察するに、おばさんはキリウ君が何かを穴に入れるのを期待しているらしい。大きな穴、それを囲んで笑う人々、列……。キリウ君は、なるほど? と合点のいった気がした。おそらく人々は、穴に何かを投げ入れて笑っているのだ。キリウ君は、それをすれば面白くなるのだと理解して、列へ並ぶことにした。

 いざ列を見つけて並んでみると、キリウ君はあっさりと迎え入れられ、三十人程度の列に並ぶことができた。賑わいの中で前方の気配に耳を澄ませてみると、確かに列に並んだ人々は一人ずつ、何かを穴に投げ入れているようだった。そのたびに周囲の群衆が歓声混じりの笑い声を上げ、拍手までしている。キリウ君は、自分の考えが正しいことに安堵した。

 しかししばらく並んで列が進んでいくうち、キリウ君はだんだん不安になってきた。他の人たちはいったい何を投げ入れているのだろうか? 考えてみるとキリウ君は、何かを投げ入れたところで、それでなぜ笑えるのかを全く理解できていないままだった。背伸びをして前の人たちの様子を見ようとしたが、列に並んだせいで穴からはむしろ遠くなってしまい、やはり何も見えなかった。

 キリウ君は焦り混じりに、自分の前に並んでいるおじさんに話しかけた。

「すみません、これって、何を投げ入れたらいいんですか?」

 春だというのにダウンジャケットを着込んだおじさんは、焦点の合わない濁った目でキリウ君を見た。そして、へらへら笑ってこう答えた。

「何でもいいんだよ。食べ物でも、洗剤でも、何でも。あ、でもお金はダメだ。お金は入れちゃあダメだよ」

「何でも……。あの、これ、何が面白いんですか?」

 おじさんはキリウ君の二つ目の質問には答えず、なぜお金を入れてはいけないのかを説明し始めた。

「誕生日に、お金をあげることはしないだろ? それと同じだよ。お金は、あげるものじゃないんだ」

 キリウ君は誕生日にお金が貰えたら嬉しいと思ったが、そのせいで何を訊きたかったのか分からなくなってしまい、頭を抱えた。おじさんはそれ以上何も言わず、キリウ君を見て笑っていた。

 キリウ君は、おじさんにお礼を言い忘れたことに気付かないほど動揺していた。このままここで並んでいても、何も分からないまま終わってしまうのではないかと思えた。それに、何でもいいと言われると、余計に何を投げ入れたらいいのか分からなくなってしまうのだ。キリウ君の頭に、最も嫌な想像が浮かんでいた。それは、この場のノリを何も理解していないキリウ君がやみくもに何かを投げ入れた瞬間、周りの人々が一斉に笑うのをやめる光景だった。

 キリウ君は怖くなり、そっと列から抜け出そうとした。しかしキリウ君の後ろに並んでいたおばさんが、急にキリウ君の肩を掴んで引き止めた。

 ひっ、とキリウ君は小さく悲鳴を上げそうになった。おばさんは、先程の薬局から出てきたおばさんだった。彼女はクリームパンのような手でキリウ君の肩を掴んだまま、キリウ君の目を見て笑っていた。

「ここまで並んだのに、もったいないわよ。何でもいいんだから、投げ入れてみなさいよ。あ、でも、電池はダメよ。去年、ちょっと色々あってね。それと、トマトのヘタもよくないから」

 彼女の言葉と声色に、キリウ君はいよいよ怖くなってきた。

 全然、何でもよくないじゃないかとキリウ君は困惑していた。何でもいいと言うわりに、何かを投げ入れることに対して、あれこれと条件があるように思えた。探せばどこかにルールがあるのだろうか? あったとしても、今からそれを探せるのだろうか? キリウ君は、半ばパニックになって尋ねた。

「あの、あれ、何を入れたらいいんですか?」

「何でもいいって言ったじゃない。あ、でも、コーヒーならカフェインレスの方がいいわね」

「この中で、入れても大丈夫なもの、どれですか?」

 キリウ君が買い物袋を広げて中身を見せると、おばさんは眉をひそめた。

「あー、これは全部ダメねぇ。それとね、もちろん、ポリ袋も環境に悪いからダメよ」

 キリウ君は発狂しそうになった。

 それからおばさんの世間話に付き合わされているうちに、とうとうキリウ君の番が来てしまった。キリウ君の前のおじさんはキャットフードを投げ入れており、周りの人々はそれを見てここ一番の盛り上がりを見せていたが、そんなことはどうでもいい。結局キリウ君は、見えざるNGが無数に存在するということ以外は、まったくこの場のルールを知れずに穴の前に立つ羽目になってしまった。

 近くで見ると、想像以上に大きな穴だった。遊歩道と同じように舗装された穴の中には等間隔に監視カメラのようなものが設置されており、それらがキュイキュイと微かな音を立てて動いている。穴の底は真っ暗で何も見えなかったが、恐る恐る覗き込むと、ふんわりとした生ぬるい風が立ち上っているのがわかった。風は、ミントで野焼きをしているみたいに奇妙な匂いがした。

 穴を囲む人々の無数の眼球が、キリウ君を見つめていた。誰も彼もが、にこにこしながらキリウ君を見守っていた。後ろのおばさんが小声で、「頑張って」とキリウ君を応援している。

 キリウ君は財布を投げ入れようかとも咄嗟に考えたが、財布にはお金が入っているのでダメだった。何より財布を投げ入れたら、自分を証明できるものがなくなってしまう。こうなるなら、マヨネーズを先に買っておくんだった。そんなことを気にしてキリウ君が逡巡しているうちに、周囲がざわつき始めた。この場所にいる人々は、キリウ君が何かを投げ入れるのを心から楽しみにして、それを裏切らないと確信しているのだ。街灯に取り付けられた『穴投げ大会』のフラッグが揺れている。心臓が痛いほどに鳴って、プレッシャーがキリウ君を押しつぶす。

 やがて全てを諦めたキリウ君がレジ袋から大根を取り出して掲げると、人々がしんと静まり返った。やはりおばさんが言っていた通り、ダメなのか。しかし、引き留めようとする声もなかった。じゃあ、ダメではないのだろうか。キリウ君には、皆が何を期待しているのか解らなかったが、もう何でもいいから何かを投げ入れるしかなかった。

 キリウ君は大根を投げた。ずっしりとした重みが、キリウ君の手から離れていった。

 誰も何も言わなかった。キリウ君は、皆が笑ってくれるのを祈っていた。しかし、大根が闇の中に消えたあとも、誰も笑わなかった。大根が穴の底に当たった音すらしなかった。

 キリウ君は、焦って列に並んだことを後悔していた。先走らずにもう少し様子を見てから並べばよかったと、今更になって思った。そしてこれから自分がどうなるのか、来週もこの商店街に来ることができるのか、そういったことをじわじわと考え始めていた。

 するとその直後、穴の底のスピーカーか何かから、気の抜けた声が聴こえてきた。

『まあ、初めてだから、オッケーです!』

 意味がわからずキリウ君が固まっていると、周りの人々が徐々に笑い出した。それは含み笑いから始まって、やがて大爆笑へと変わっていった。お店の人たちも、すべての客も、通りかかった学生や会社員も。親子連れも、ベビーカーの赤子も、誰かに抱えられた犬ですら。皆、心からの笑顔を浮かべて笑っている。

 赦されたのか? キリウ君は、何が面白いのか全く解らなかったが、人々が笑っているのを見て、心底ほっとしていた。誰かが「大根!」と叫び、指笛を吹いた。

 キリウ君がその場を離れようとすると、後ろにいたおばさんがにこにこ顔でキリウ君の肩を叩いた。彼女は「次は気を付けてね」とほがらかに言って、さらにキリウ君の背中を温かい手の平で叩いた。キリウ君は泣きそうな声で「はい」と返事をして、足早にそこを離れた。

 軽くなった買い物袋を提げて、帰り道を歩きながら、キリウ君はだんだん悲しさと腹立たしさが入り混じった気持ちになってきた。結局、何が面白いのか全く解らなかったからだ。なぜ赦されたのか、なぜ赦されなければならなかったのかも解らなかった。しかも、せっかく買った大根が無くなってしまった。大根を食べたくて買ったのに、よくわからない理由で穴に投げ入れてしまったうえ、何かしらの妥協の末にどうやら赦されたらしいのだ。おまけに、あまりの出来事にマヨネーズを買い忘れた。

 気が弱かった昔の時分のことだ。こういうことがあったせいで、今でもキリウ君は、納得できないことがあるとすぐ弾けてしまいたくなる。今のキリウ君だったら、大根でおばさんを殴り倒してでもその場から離れていただろう。それが良いことであるかどうかはわからないけれど。