2024大晦日

 一説によると、人間の脳みそは否定形を理解するのが難しいらしい。ネット掲示板のルールに『荒らし禁止』と書かれていれば、むしろ荒らしたくなるように。『無断リンク禁止』と書かれていれば、むしろ晒したくなるように。

 もしもその法則が蟹にも適用されるとしたら、自分がしているこれは逆効果なのではないか? とあるキリウ君――仮に個体Aは、ふいにそのように思い至って動きを止めた。そして、目の前に掲げたままのスーパーのチラシを見た。年末のセールを大声で告げるそこには、もっとずっと大きな声で『虫を食べてはいけない』と書かれていた。

 それは個体A自身が私物のペンで書いたものだった。彼は今からそれをダクトテープで壁に貼ろうとしていた。このがらんどうのビルの暗い一室の壁には、そのような紙がすでに何枚も貼られている。『人間にさわってはいけない』『犬/ねこ/鳥を殺してはいけない』『カベに穴をあけてはいけない』『他人の失ぱいを笑ってはいけない』……どれも彼が彼自身に向けて書いたものだった。

 もっとも、個体Aも好き好んでそれらのルールを自身に課しているわけではない。彼はただ、過去にキチガイの雇い主からそれらを命じられたことがあっただけだった。そして他には、心に刻む言葉も持っていなかったのだ。

 ゆっくりと開いた個体Aの手から音もなく落ちたチラシが、剥き出しの冷たいモルタルの床を滑っていく。灯りの無い部屋の中でも、窓の外から入る街の光は思いのほか明るく、個体Aの視力が優れていることを差し引いても、夜の闇にチラシの白い枠が呑まれて消えることは無かった。

 この冷たいビルの一室は彼の雇い主が借りたもので、個体Aは入居までの間の見張り兼近辺の偵察を命じられて、少し前からここに滞在していた。街の中心地からそう離れておらず、賃料が妙に安く、何より人間以外の生物の持ち込みができるよう交渉済みの物件だ。彼の雇い主がそれらの条件を手に入れるため、加えてもともとの入居者を退かそうと個体Aに命じた数々の工作を知っている者は、彼以外にいない。「どうせ詐欺師どものオフィスだから」などと雇い主は言い訳していたが、そんなことは個体Aにとってはどうでもいい。おかげで個体Aは、電気系統のケーブルをかじるよう教え込んだ甲虫たちを駆除すべく、ここ数日は働き通しになっている。

 しかしいくら工作員としての訓練を施された個体Aとて、本当に何の感慨もなく他の生き物の命を奪える境地には至らなかった。雇い主すらそれを望んではいないことに彼が気付かなかったのは、不幸なコミュニケーションの失敗だったのかもしれないが。

 彼は落としたチラシを思い出したように拾い上げると、雑に折りたたんでそばにある段ボール箱の横に置いた。段ボール箱の中には彼が殺さなかった数匹の甲虫がおり、チラシをちぎって作られた即席の床材の上で、思い思いに転がったり呑気にエサをかじったりしていた。エサは個体Aの弁当の一部だったが、どうやらそれを虫たちも気に入ったらしい。僅かな光をも吸収してマイペースに黒々としている虫たちを見ていると、個体Aは不思議と心が癒された。

 弟もこんな気持ちなのかな、と個体Aは思った。

 個体Aには同じキリウ君の弟がいる。彼の弟は雇い主の命令でミジンコを育てており、それがかわいくてたまらないのだとしょっちゅう惚気ていた。雇い主は個体Aへのそれとは異なり、弟には良き飼育員としての訓練を施した。弟は今も事務所兼住居である雇い主の部屋で、ミジンコたちの先生をやっていることだろう。

 いつからか、四六時中一緒にいなくても生きられるようになっていた。そうして人間に染まった弟は、いつも個体Aの身を案じていた。温かいところで眠っているか、食事はちゃんと取っているか、怪我を放置せず手当しているか、などなど。同時にそれらを個体Aに与えるよう、弟は勇気を出して雇い主にもしつこく頼むのだった。するとどういうわけか――ミジンコたちの手前いい格好をしたかったのか、クズの雇い主は中途半端に人の心を見せ、順法意識の皆無な命令は変えないくせに、物資にそのためのものを混ぜてくるようになったのだからたまらない。いつしか個体Aの世界への反発はより強固なものとなり、理解できないお節介な弟との距離感も広がっていった。

 夜目が効き、外気温の変化にも強い蟹には照明や冷暖房が要らない。雇い主もそれを求めて個体Aを使役しているはずだし、実際のところ『必要な時とレンラク以外に電気を使わない』ことを個体Aに命じている。

 カーテンもブラインドも無い窓辺に腰を下ろし、個体Aは外の様子を眺めた。暗い室内からは外の様子がよく見えた。今日は大晦日だ。人通りが多いらしいと聞いて、それがいつ・どの程度のものか判らない個体Aは外出を控えていたが、少なくとも今はそうではなさそうなことを徐々に理解していた。人通りはほとんど無く、時折通り過ぎる車のライトもせせこましい軌道を描いて家々へと吸い込まれていく。

 甲虫たちが光ったなら、似たような軌道を描くのだろうか。そんなことを考えていると、ふと個体Aの視界の端に二人の人影が入ってきた。

 見ると片方はキリウ君で、そいつは妙に楽し気に傍らの人間の周囲をうろついていた。人間も片手に下げたレジ袋を持ち上げて、大きく身体を揺らしてふらふらと歩いている。そのキリウ君は人間の後ろについて、何かを言いながら笑っているようだった。

 ああ、まただ、と個体Aは思った。ああいったキリウ君たちは個体Aや弟とは違い、雇用以外の関係で人間たちと共にいるのだった。キリウ君だけではない。蟹が人間とともに暮らすのは今の世の中では当たり前のことで、特にこの街ときたら、個体Aがここに来てからの数日間だけで同じような光景が数えきれないほど見られた。そう頭では理解していても、個体Aの心はどこかでそれを受け入れられないままだった。そしてその感情は、一概に横暴な雇い主のせいだけではないような気がしてならなかった。

 いつか折り合いをつけられる日が来るのだろうか? 夜目の効く個体Aには、今日のような新月の夜ですら、街の光が邪魔をして冬の星を見ることができない。いつかそれを見ることができたなら、何かが変わるのかもしれなかった。いや、それを見られる時はすでに――。

 見えないものが見えたらいいと思って、個体Aは何も無い空を見上げた。