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2023大晦日

 自分自身のことを正確に把握することは難しい。特にキリウ君のように意志薄弱で当事者意識に欠ける永遠の少年にとっては、下手をすれば、一生涯自覚的に考察することの無いテーマでもあった。

 そういう意味では、今日ここにいるキリウ君――仮に個体Aは、この地方に百匹ほど生息しているキリウ君たちの中では比較的自分自身のことを把握していると言えた。例えば彼が思う『幸福』の一例は、『顔面パンチが届く距離に立つことができて、それでいて実際に顔面パンチを放ったとしても笑っていられること』であった。質問に沿った答えであるか、国語的に正しいか、価値観としていかがであるかといった疑問はさて置き、熟考したうえで明瞭にそう答えた彼の表情には一点の曇りも見られなかったという。

 あるいはその濁った眼球の向こう側に、彼の自意識という幻想を認めるならばの話であるが。

 

  *  *  *

 

 どういうわけか過去数年間のどこかで、個体Aは素行不良の少女ユコと友達になった。尖った歯をむき出しにして、野良犬にするように蹴飛ばしてみろよと吠えた個体Aの頭を、気の動転した彼女が撫でまわしたのが交友関係の始まりであった。個体Aは、いとも簡単に自分の間合いに入って頭に一撃まで食らわせた彼女をただものではないと感じ、以後彼女に心を許すようになった。

 この年の大晦日の夜、郊外の空きビルに面した簡素な駐車場で、個体Aはやはりユコと出会った。

 今年は暖冬とはいえ、二十三時過ぎともなると街はコンクリートの芯まで冷え切っていた。もしもまばらな人影がいたならば、みな肩を縮めて手指の先を隠していたに違いない。例に漏れずユコも分厚いダッフルコートに身を包み、大きなポケットに両手を突っ込んで歩いてきた。彼女は個体Aがほとんど春先のような恰好をして車止めに座っていることを知るなり、多少ぎょっとした顔をしたが、いつものことなのですぐに表情を戻して駆けてきた。

 一方で個体Aも馴染みのある体重移動の足音を察知して、我先にと振り返って彼女の名を呼んだつもりであった。

「キリウ君」

「ユコ」

 実際にはユコの呼び声の方が僅かに速く、個体Aは内心で肝を冷やした。さらに個体Aは彼女との距離を四メートル程度に見積もっていたにもかかわらず、この時彼女はすでに個体Aの背後二メートル半まで接近していた。

 ユコはいつも個体Aが思うより敏捷で、そのため個体Aは、彼女に殴り合いの喧嘩で勝てたためしが無かった。個体Aは自分より身体能力に優れた生物との接し方が分からない。また、彼自身はその点に無自覚であったため、そこにどういった心理が働いているのかを分析することもできなかった。

「ぜんぜん動かないから、死んでるのかと思った」

 彼女は、先程まで眺めていた個体Aの後ろ姿をそう評した。もっとも、蟹が動かないのは普通のことである。個体Aは立ち上がって伸びをすると、半笑いになって答えた。

「地獄の夢見てた」

 個体Aの言うそれは嘘であった。一般的にキリウ君は生来の虚言癖を持っていた。なまじ他者の気を惹くためだけに行われるものでなく、むしろ殆どは自分自身を欺くために行われるぶん、扱いが面倒だとされていた。しかし現在では矯正方法が確立されており、個体Aもまた矯正済みであったため、ここでのこれは単なるコミュニケーション目的の後先考えない嘘であった。

 もっとも、それを言われたユコも個体Aの嘘がどういった病理で発されているものかを気にしたことなどなかったため、いつだって彼女は愛想笑いにしては幾分か真面目に微笑んでいた。その態度は個体Aに安心感を与え、たとえ有事の際に殴り合いで勝てない可能性が高いと分かっていても、彼がユコから離れない一因となっていた。

 この時の個体Aは『番犬』、もとい警備の仕事中であった。個体Aがいる場所からはビルの非常階段と正面玄関の両方を見通すことができ、侵入者がいれば即座にぶちのめすことが彼の職務である。個体Aの雇い主は彼にそれをできるだけの訓練を施しており、現実に彼はそれをできるだけの能力を有していたが、彼自身はそのことを世間が思うほど大袈裟に捉えてはいなかった。

「お仕事お疲れ様。ほんとに大晦日も働いてんのね」

「べつに、ただの番犬だよ。蟹とかホームレスが入んないようにするだけ」

 こと自分よりも強いかもしれないユコが目の前にいる今は、ある意味では彼は委縮してすらいるのであった。個体Aがそう言って斜め下を向くと、ユコは少し肩をすくめた。

 個体Aは、彼の雇い主がそうするように自身の仕事を『番犬』と称していた。しかし実際のところ、それを口にするたびにほんの少しずつ心のどこかが削られていた。そして彼自身はそのことに甚だ無自覚であったため、自分を傷つけることに疑問を持つことができなかった。そのくせ個体Aは、感傷的になることをダルいとする冷血さに似たマッチョ的な要素を持っていたため、仮にそれを自覚したとしても認めないのであろう。

 この時個体Aはアスファルトを見つめながら、なぜユコが今日ここに来たのかと疑問に思ってもいた。その答えはすぐに判明した。先日、下水道で異常繁殖していたタコの駆除をした後、やはりユコに出会った際に大晦日の予定を訊かれて、個体Aはぺらぺりと喋っていたのであった。

 個体Aには、ユコに自分のことを喋りすぎる悪癖があった。それはユコが個体Aの数少ない(弟を除けば唯一の)友達であること、さらに彼女が個体Aを、彼自身が望む通り『キリウ君』と呼んでくれる唯一の存在でもあることが大きな要因であった。後者は犬を犬と呼ぶことと殆ど同義であったが、ユコは個体A以外のキリウ君が身近にいなかったため、終ぞ気にすることは無かった。

 なお個体Aの仕事には『守秘義務』があり、職務に関わる事柄を知らない人に話すことは勿論禁じられていた。個体Aは蟹の中では知能が高い方であったため、「ユコは知らない人ではなく友達であるからこれに抵触しない」などと浅はかにも考えているわけでは決してなかった。しかし個体Aは、先に述べた自身の口軽にこそ強烈に自覚的であったため、そのこととこちらとを完全に同列に捉えた結果、雇い主に報告などせず内心で女々しい自分をとかく恥じるだけに留まった。幸いユコは口が堅い少女であったため、個体Aの雇い主がこれを知って個体Aを死ぬ寸前まで折檻する機会も、やはり終ぞ無かったのであるが。

 ふたりの関係がそのような薄氷の上にあることを知ってか知らずか、彼女は低いビルの青白い外装を見上げて息を吐いていた。彼女と個体Aとは今や互いに顔面パンチの届く距離に立っており、天文学的見地から言えば消滅を意味していた。

 やがて彼女は、沈黙を埋めるようにというよりは単に隙間にものを入れるように、個体Aに尋ねてきた。

「こんなとこ、勝手に入る人いる?」

「いねーよ、警備代ケチられてるだけ。だいたい、このビル、もうすぐ手放すらしいから空っぽなんだし。俺もう、グチャグチャに荒らして帰ろうかと思った」

「なに荒れてんの。はい、これ」

 この瞬間、すっと差し出されたユコの手の中にあるものを見て、個体Aは固まった。

 ダッフルコートのポケットからようやく出てきたユコの両手には、缶コーヒーと小さなペットボトルとがそれぞれ握られていた。ユコが個体Aに差し出したのは缶コーヒーの方であった。個体Aは一瞬迷ったあと、彼女がもう片手に持っていたホット緑茶を指さして言った。

「俺、そっちがいい」

 ユコが、ペットボトルと個体Aの顔とを交互に見た。それは単にペットボトルがすでに開封済みだからであったが、個体Aにとっては腹を探られているように感じたものであった。

 個体Aは偏食気味のため、濃い味のついた飲み物が苦手であった。特にコーヒーは雇い主が拵えた『食べてよいものリスト』に載っておらず、以前に外で他人からもらって無断で飲んだ際に、泡を噴いて倒れたこともあった。そのような事情ならば個体Aはそのことをユコに伝えるべきであり、それが今後のふたりの関係のためにも大切であったが、しかしこの時の個体Aは友達の好意を無碍にしたくないという気持ちが先んじてしまい、我儘のふりをして、替えてもらうようなことを言ったのであった。

 個体Aは他人が思うほど無自覚ではないが、彼自身が思っているほど自覚的でもない。自覚的でない部分の半分は痛みを避けるために無意識に目を逸らしているが、それは誰もが等しくそうである。ユコは首を傾げながら、まだ十分に温かいペットボトルを個体Aに渡した。

「ありがとう」

 掠める程度に触れたユコの手も同様に温かかった。個体Aは自分の手の冷たさを恥じるようにすぐ手を引っ込めて、ペットボトルをきつく握った。

「いいよ。いつまで仕事?」

「明日の昼。てかユコ、こんなとこいて大丈夫なのか?」

「原付だから大丈夫、日付が変わるまで喋ろうよ。弟はどうしてるの?」

 ふいに弟の話題を出されて否応なく苦々しくなった表情を、個体Aは口にした緑茶が渋かった素振りをして誤魔化した。

 それは正確には、彼の弟に妙なことを吹き込んでいる雇い主の顔を思い浮かべての反応であった。ここまでの話から概ね分かる通り、個体Aの雇い主は少し異常な人物であり、昨晩も鍋で煮ているちくわぶの断面を個体Aの弟に見せながら、ちくわぶの切り潰れた穴とまだ目が開いていない子猫とを重ね合わせてその愛おしさを説いていた。個体Aはため息混じりに答えた。

「弟は事務所でミジンコ育ててる。あれ見てると、俺、幸せって何だろうって思う」

 個体Aからすれば、そのような雇い主から職業訓練を受けるのであれば、まだ飼育員よりは殺し屋の方がマシなよう感じられたのである。しかしユコは楽しそうに笑って、個体Aの疑問を跳ね返した。

「ほんとにそう思ってる?」

 蟹を生きたまま焼くことは間違いなく調理と言えた。――おそらくこの時のユコは間違いなく、個体Aの今の言葉が、思考を介さずに発されたでたらめである確信を持っていたのであろう。

 仮にユコ以外にそう言われたならば、個体Aは自分の口から流れ出た言葉にそれ以上の疑問を持つはずはなかった。所詮ははしご型神経系の反射が見せる思考の幻であった。けれど数少ない友達、それも自分より強いかもしれない友達にそう言われた今、個体Aは自分の何かとても大きな嘘をあばかれたような気分になったのも事実であった。

 そこに恥ずかしさや焦り、あるいは怒りを覚えることは一片たりともなかった。ただ、この時から個体Aは、幸福について真面目に考えるようになった。

「キリウ君、今年はお疲れ様。来年も頑張って生きてこうね」

 彼女はそう言って、ぎゅっと拳にした右手を個体Aの眼前にかざした。それは風圧をまったく感じさせず、まるで冬の夕日のように差し込まれた。個体Aは無言でうなずくとともに、彼女の拳に自分の額を軽くぶつけてみせた。

 事実、個体Aはユコから色々なことを教わった。セルフレジの使い方、スマートフォンのカメラで長時間露光撮影をする方法、人間が自分自身の身分を証明するために特定の物品が必要であること、伸ばしたときに絡まないようにホースを巻く方法……。生きてるだけだと、知らないことは多いのである。