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2021大晦日

「俺は青空を飛ぶ男」

 閑静な住宅街の片隅で、そう宣ってキリウ君の前方に現れたのは、キリウ君だった。キリウ君と同じ声、キリウ君と同じ骨格、キリウ君と同じ秋服の名残、キリウ君と同じ空色の髪と赤い瞳をしたそいつは、しかし地面から二メートルも浮いていた。

 こういう奴はどうせ学校でも職場でも浮いてるし地に足の着いてない生活をしてるに決まってる。そう思い流したキリウ君は、自分を棚に上げつついくらか腰が引けつつすたすたと歩き続けた。宙に浮かぶそいつの靴の真下をしっかり通り過ぎたとき、案の定、上斜め後ろから声が飛んできた。

「俺はキリウ君になりたいけど、空を飛べるからキリウ君になれないんだよ?」

 空を飛んでいようがいまいがそういうこと言う人は主張が激しくて嫌だ、とキリウ君は思った。

 だから大晦日に外になんか出たくなかったのだ。ただでさえ寒いし、最近はエビの脚が多すぎて気持ち悪いのも辟易していた。けれど脱走したマリトッツォの母親を探しに行かなければ来年の資金繰りが危うかったし、何よりエビの脚が多すぎて気持ち悪いのに辟易していた。

 とはいえ……セリヌンティウスの命を諦めたキリウ君は、すっと振り向いて、空を飛ぶ男を見上げた。

 空を飛ぶ男と名乗ったそいつは、誰も見ていないところだとクソむかつく顔をしているタイプのカスだった。しかしキリウ君が折れたと分かるや否や途端に顔を綻ばせて、すとんとキリウ君の横に降り立った。そのまま自撮り棒つきのスマホのインカメラをキリウ君に向けてキメ顔で言った。

「空を飛べるばかりにキリウ君になれない俺にメッセージをくれ」

 画角から生配信をされていることに気付いたキリウ君は、すかさず上段回し蹴りで自撮り棒の先のスマホを叩き落とした。意外と脚が長いでしょ!? そしてそいつのぽかん顔に指を突きつけて凄んだ。

「求めるなよ。俺も与えない。なんなら奪うことしかできない」

 与えよさらば求められん――愛の不毛さを表していることで有名な一節だ。小学校の教室に貼られていたそれを胸にキリウ君は今日も生きている。

 軽い舌打ちが聴こえた。そいつがしたのだ。そいつはキリウ君が虫のようにじっと見つめている前で、画面がバキバキになったスマホを拾ってポッケに入れ、両腕でバランスを取って再び地面から浮かび上がった。

 今のところのキリウ君の印象としては、そいつは飛ぶ男というよりは単に浮いている男だった。どちらにせよ自分と同じ顔の人に五十センチも上から見下ろされるのはあまり好ましくないので、キリウ君がそっと立ち去ろうとすると、突然そいつがキリウ君の耳元に顔を寄せてきて叫んだ。

「4Pって乱交だと思う!?!?」

「なに!?!?」

 この時キリウ君は、耳元で大声を出されたことよりも話の内容が嫌だと思った自分に驚いていたが、驚きすぎて嫌悪感のある顔ができなかった。

「なにって、ボンバーマンの話」

「何もごまかせてなくない!?」

「スマブラがよかった? カリカリすんなよキリウ君、ハゲるぞ」

 ソーシャルディスタンス!

 子供みたいにそう声に出して、子供のキリウ君は強かにそいつの腰をどついた。地面に立っていれば肩を叩いたのに、飛んでるせいで腰骨に当たってしまった。それはとても叩いた手の方が痛い部類の鈍い音がした。

 昨今はハゲだデブだチビだと身体的特徴を揶揄するのは不愉快だからダメだと言われている。しかしあまりにも明らかだから今更語られることではないが、そもそも言葉の暴力より単なる暴力のほうがずっと痛いし怖いのだ。皆がルールを守っているからこそ、そのルールを前提とした更なる細やかなルールが出来て、出会い頭に殴りつけてくるような原始的なキチガイに対処する方法をもはや誰も思い出せなくなってしまっているのは、一種の退化と言えた。

 キリウ君に叩かれても、青空を飛ぶ男は貼り付けたような笑顔でニコニコしていた。「目が笑ってない」という文句は悪質な言いがかりの中では「調子に乗ってる」の次に万能だが、そんなことはどうでもいい。青空を飛ぶ男のそれは、目も口も笑っているけど心は笑っていなかった。近頃はそんなやつばかりだ。

「おまえ、空飛べるみたいだけど、なんか生きづらそうだね」

「よくわかったねキリウ君。お陰様で毎日辛いよ、つらいわー、つらーーい」

「そうなんだ」

「でも青空は飛べるから。嫌なことあっても空飛んで雲見てたら忘れちゃうから」

 広げた両手を空にかざして目を見開いたそいつの笑顔には狂気の片鱗が滲んでいたが、キリウ君が知らない澄んだ瞳をしてもいた。常人よりも太陽に近いところに心を置いて、体に溜まった悪いものを青空に吸わせて生きていると、そういう感じになるのかもしれなかった。キリウ君はちょっとだけそいつが羨ましくなって、小さな白い溜息をついてぼやいた。

「いいなぁ。俺はキリウ君だから空飛べない」

「その身体は目に見えるけど目に見えない檻でもあるらしいね」

 キリウ君は、青空を飛ぶ男の言ったことは自我を持つ者なら皆同じなのではないかと思ったが、そいつの目に宿る光はそうではないことを確信しているらしかった。(たまに社交辞令で人を褒めたらこれだから嫌になる。)

 自分が自分であることを目に見えない檻と呼ぶのなら、檻から出ることは自己同一性を失うことである。キリウ君がキリウ君であるために必要な条件と言えば、もちろん空色の髪に赤い瞳をもつ少年であることだ。しかし気が付けばそこには『空を飛べない』ことが加わっていた。それがいつからなのかは定かでないが、最初からそうでなかったことだけは確かだった。その不思議な条件が外側から注入された定義ではなく、内側から発生した自覚とか自意識とかだったら怖いですね。

「キリウ君はそれをバカバカしいと思ったりしないの?」

「誘導尋問じゃん。おまえ、俺に空飛ばせようとしてる」

「自分の欲求に嘘をつくのは健康に良くないよ」

「だからって……例えばひよこ潰したくても潰しちゃダメでしょ」

「そんな邪悪な欲求があるの?? ドン引き」

 ろくに考えずデタラメに言った例えが最悪すぎて、青空を飛ぶ男の反応ももっともで、キリウ君は本当に苦虫を噛み潰したような顔になった。年末進行のせいでぼんやりして、つい夢枕に立っていたオスのひよこの大群を思い出してしまっていた。

 どうにもこの交流の着地点が見えなくなってきたが、それは青空を飛ぶ男が浮いてるからではなく自分のせいだとキリウ君は認めていた。そもそも青空を飛ぶ男ほどではないがキリウ君も存在としては浮いてるし、地に足が着いていなかった。にも関わらず一緒に居て苦痛なのは、ひとえにキリウ君と青空を飛ぶ男とは根本的に馬が合わないからだろう。青空を飛ぶ男はキリウ君と似ているがキリウ君ではないので、今年に限ってこれは自己嫌悪ですらなかった。

 キリウ君は、この話はやめて、できればこいつと早く離れるべきだと思っていた。

「あのさ、青空を飛ぶ男はなんなの? 俺はどうすればいいの。俺は大晦日って、俺じゃないキリウ君と揉めるものだと思ってた。なのにおまえはキリウ君じゃないし」

 しかしそんな消極的な内心に反して、口から出てきたのはぬるま湯のような言葉だった。それに、明らかに喋りすぎだった。いけすかない奴と一対一で顔を突き合わせて喋っているとややあることだ。おまけに顔も少しニヤけていた。

 青空を飛ぶ男もまた相変わらず笑っていた。本心であるかどうかはともかく、少なくともそいつはキリウ君と別れるまではずっと笑顔でいるつもりらしかった。そいつはバキバキになったスマホをポッケから再び取り出して言った。

「とりま連絡先交換しようよ。無知なキリウ君は知らないだろうけど、普通の年末は、孤独じゃないなら馴れ合うくらいしかすることは無いんだよ」

 いまどきあえて『普通』と言うくらいなら本当に普通なのだろうと、キリウ君は満更でもなく俯きがちに笑った。

 しかしその直後、キリウ君の目の前でそいつの頭がぶっ潰れた。

 実際のところ潰れたように見えたのは頭の中身が飛び散ったからで、青空を飛ぶ男の頭は、落下物が直撃して脳天から真っ二つに割れていた。地べたに叩きつけられるようにして転がったそいつの隣に、ドツンと重い音を立てて大辞泉が転げ落ちる。

 キリウ君は浴びた返り血と同じだけ自分の血の気が引いていくのを感じていた。自分と同じ顔をした死体を見るのは慣れっこだと思っていたが、和やかに話している最中だったせいで精神的に隙が生じていた。そして脱力するのに任せて一歩後ろにふらついた瞬間、さらにゲームキューブがキリウ君の立っていた場所にまっすぐ落ちてきて、一瞬でスクラップになった。

 人を殺すときの気持ちにゲームキューブは軽すぎる。膝をついたキリウ君が見上げたとき、真横のマンションのどこからか様子を窺っていたはずの者の姿はとうに消えていたが、キリウ君は電波の反射からそれが別のキリウ君であることを察知していた。まあ大晦日にキリウ君以外の不審者が出てくる方がなんなのって話ですが……。

 大辞泉とゲームキューブが粗末にされたことは問題だが、それ以上にキリウ君はとてつもなく嫌なことに気付いていた。こんなに寒いのに冷や汗が出てくるほどに。どうやらあそこにいたキリウ君は、上から見下ろしていたせいでそこのバカ、青空を飛ぶ男が宙に浮いていたことが判らず、キリウ君だと勘違いして殺してしまったらしい。

 大晦日にキリウ君がキリウ君じゃないものを殺した。これはコンプライアンス的に非常にまずい。

 インシデントは発生から二十四時間以内に上長に報告する義務があります。それはキリウ君も同じです。青空を飛ぶ男の地に伏した死体を飛び越えて、キリウ君は脇目も振らず走り出した。マトリックスの管理者、いや、地元の先輩の元へと。