あるところにキリウ君の実在しない弟がいました。でもほんとかな~、実在しないのはキリウ君の方なんじゃないかな~……。
そのキリウ君の実在しない弟、正確には色違いの双子の弟、仮に名前をジュン君とします。
ジュン君は幼い女の子のかたちをした人形を所有していた。誰の目から見ても明らかなほどに彼はその人形を大層可愛がっており、親よりも大切に接していた。それは単に彼に親がいなかったからだけでなく、潜在的に彼がマザコンではないということを意味してもいた。
しかしある真夜中のティータイムのことだった。どれだけつまらなくて素敵な話をしていた時だったかは定かではないが、彼女がこたつでしるこサンドをかじりながら唐突に言った。
「あたし人間になりたい」
それを聞いたジュン君は、なんかめんどくさいことになってきたぞと白髪の頭を抱えた。
なぜならジュン君は人形の彼女が大好きだったからだ。人形というのは何かを考えたり論じたり、ましてや自分が生まれてきた意味を考えたりなどしない。そんな彼女こそがニヒリズムの天使であるとジュン君は心の底から信じていた。その前提が崩れたりしたら、ここ二・三十年の運用実績がパーになるくらい信じていたのだ。
六秒ほど変な顔をした後、ジュン君はため息を飲み込んで彼女を諭した。
「ミーちゃん、なに言ってるんだよ。べつに悪くはないと思うよ。でも人間なんてクソだよ」
「なんでー?」
この時ジュン君は他人を頭ごなしに否定しないよう努力していたが、腹の底から湧き上がる嫌悪感で三言目には心が折れていたし、その自覚があった。
一方のミーちゃんと呼ばれた人形は、柔らかい頬を微かに膨らませてゆらゆらと能天気な花のように揺れていた。それは彼女が普段から大した意味も無く行うかわいいだけの仕草で、ジュン君はいつも通り流されそうになったが、ここで負けたら脳みそを吸われると思って耐えた。
「なんでーはこっち。逆にさ、なんで人間なんかになりたいの?」
探りを入れるために質問を質問で返した卑怯なジュン君の赤い瞳を、彼女のガラス玉の眼球がまっすぐに見つめる。彼女は人形特有の空っぽの頭に由来する、空っぽの顔をしていた。持ち主の心を見透かしながらも捕まえることのない、無責任な愛しさのかたまりだった。そんなものを振りかざして、彼女はただ一言だけ答えたのだった。
「ジュンちゃんとおんなじになりたいから」
彼女のその言葉に、ジュン君は強烈な違和感と怖気を感じた。
あまりにも唐突過ぎると思ったからだ。ジュン君が食べようと思って片手に持ったままの鳩サブレが、袋の中でミシリと音を立てて砕ける。この冒涜的な言霊は彼女の深淵なる思考回路の虚無から出てきた願いではない。そのような確信だけがジュン君の中にあった。
ならばいったい誰が彼女にこんな不毛な願いを吹き込んだのだろう。考えなくともジュン君はすぐに思い当たった。どうせジュン君の兄に違いない。あの兄は実在しない上に昔から空気が読めないところがあり、他人の家に行くたびに物陰にカマキリの卵を置いていくためだけにカマキリを年中育てているキチガイだ。最後に会った時の兄はミーちゃんに分裂したプラナリアの魂について説いていた気がするが、まさかこんな邪悪なことをするだなんて。
犯罪者は皆そうだ。ジュン君は兄の靴を事象の地平面に投げ込んでくるようインターネットで手配すると、苛立ち混じりにティーカップの残りの緑茶をあおった。味がしないのは冷めきっていたからだけでないのは明白で、きっと緑色のかき氷シロップを薄めたものでも同じだった。ヤケ酒の所作で置いたティーカップの底が鳩サブレを袋の上から叩き割り、そのままゴリゴリとティーカップを押し付けることで雑念を逃がすアースの代わりになったらいいな~。突発的なストレスから、ジュン君はミーちゃんの視線を避けて、手元をやたらいじいじしてしまっていた。
「ぼくと同じにならなくていいよ。人形のままのミーちゃんが一番ステキだよ」
「あたし、今でもごはん食べれるし夜は寝れるよ? はいすぺっくだよ。人間になってもあんまりかわらないよ」
「変わらないなら、ならなくていいんじゃないの……?」
ハイスペックなのは事実だし心底ありがたいことだとジュン君は思っていた。おかげさまでミーちゃんは抱き締めるといつも彼が望む体温でいてくれた。夏などはきゅうりみたいに冷たくて気持ちいいものだが、だったらなおさら彼女を人間になどできるはずがなかった。
だいたい、人形の彼女は食べるのも寝るのもジュン君に付き合ってくれているだけなのだ。こうして無秩序なティータイムを楽しんでいられるのも、彼女のそういった機能の賜物だった。現実にそれはジュン君の精神衛生を保つうえで大きな役割を果たしていたが、しかしオプションではなくなってしまうとそれはそれで面倒になることは想像に難くない。ただでさえ二食食べるのも面倒なのに、人形まで食事で動くようになったら不規則な生活がバレて恥ずかしくなってしまう。
とにかく、たとえ加減を間違えて山盛りの唐揚げを平らげようが丸二日寝ていようが人形だから良いのであって、人形でなくなったら良さが全部失われてしまうとジュン君は思い込んでいた。仮に彼女が人間ではなく猫・カナリア・高級文鎮などになりたいのだと言っても、ジュン君は同じように止めたに違いない。
するといい加減にジュン君の気持ちを察したミーちゃんは、しょんぼりというよりはストレートに不服そうな顔になって口を尖らせた。
「もしかしてジュンちゃん、あたしが人間になったら、あたしのこと好きじゃなくなるの?」
その通りじゃクソボケ!!なんて言っちゃだめだよなー😭
「そうだよ!? 好きじゃなくなるし、愛せなくなる――」
ジュン君はガチギレ寸前で声を張り上げた直後、しかし自分の言葉を喉につっかえて黙り込んだ。
それから急にトーンダウンして、なぜか小声でミーちゃんに尋ねた。
「これってぼくが間違ってるのか?」
ミーちゃんはほとんど深刻ではない様子で「んー」と呻った。彼女は先程ぷんすかしていたのが嘘みたいに、両手で頬杖をついて呑気な顔をしていた。これは、彼女が「必ずしも同意しない」「明言すると相手が傷つくかも」「特に意見を出さなくても相手の自問自答を促していれば話が終わる」と判断した時によくやるそれぞれの仕草を混ぜたリアクションだった。
ということはつまり、そういうことのようだ。大人の反応を見て生き方を決める子供のように、着地点から逆算して投身自殺するように、ジュン君はぽつぽつとおのれの思考回路を辿り始める。
「だって……誰でもそうだろ。ここが変わっちゃったら好きじゃなくなるって決定的なところ、あるはずだろ。どんなに好きなものだって一か所ずつ変えていったら、絶対にどこかで好きじゃなくなる。ぼくはたまたま、ミーちゃんが女の子の人形だってところがそれなんだ。例えばミーちゃんの身長が二メートルになっても変わらず好きだと思うけど、例えばミーちゃんが男になっちゃったら、でもぼくは女の子が好きだから、それはなんか違くて」
単なる好き嫌いの問題なのか同一性の問題なのか判らなくなってきたことに気付かぬまま、ふとジュン君は、脳裏で彼の実在しない兄を想っていた。
実際のところジュン君は同い年の兄について、血が繋がっていなかったらとっくに撲殺していただろうと常日頃から感じており、血が繋がっているという一点のみにおいてツンデレな感情を抱いていた。けれど仮に兄が心を入れ替えるなり脳を洗浄するなりして、ジュン君にとって少しでも好ましい方向に変わってしまったとしたら。そうなったら、もしかしたらジュン君は本当に兄を撲殺してしまうかもしれないとも思っていた。
「だから例えば、ミーちゃんが人間になっちゃったらそれは、将来に渡ってミーちゃんが人形であることを期待してたぼくにとっては……」
現状に満足しているというのはそういうことなのだ。そもそも好きだとか嫌いだとかいう感情自体が理不尽なものだし、そのうえで現状に満足しているのだから、すすんで変化しようとするものを引き留めたくなるのは何もおかしくない。人間は変化が嫌いなものだ。だとすれば、なぜジュン君がそこに罪悪感を覚えなければならないのか? ――
「……ちょっと……裏切りっていうか……そうなると知ってたなら、たぶん最初から好きじゃなかったっていうか」
何かが間違ってるとすればこの傲慢な態度じゃボケカスが!!
そのことに気付いた瞬間、愚直なジュン君の心の内を吹き上がった自己嫌悪は凄まじいものだった。致死量の自己嫌悪をいっぺんに浴びたジュン君は、逃げ出したい、消えたい、吊りたい、人間関係をリセットしたい等の衝動に襲われ、咄嗟に顔を手で覆った。されど空っぽの顔をしたままのミーちゃんが、首を傾げてそれを覗き込もうとしていた。
「ジュンちゃん、どうしたの?」
「ごめんなさい。ミーちゃん、ぼくが好きなままのミーちゃんでいてほしいんです。お願いします」
内臓を吐き出しそうな声でそう述べたジュン君は、打って変わって身体ごとミーちゃんの方を向いて深々と頭を下げていた。どういう態度になったところで、ジュン君が自分のためにミーちゃんに意思を曲げろと言っているのは変わらなかったが、ミーちゃんの共有幻想機構にはそんなジュン君が心だけで泣いてるように映った。
おそらく、今からジュン君がミーちゃんを好きじゃなくなることは臓器がひとつ無くなるくらいの痛みを伴うらしいことを察し、同情したミーちゃんは、なんかめんどくさいことになってきた~と思って彼を赦すことにした。
「いいよ! じゃああたし、人間になりたくなくなったよ」
てか人間になりたいなんてのも、べつになんとなく思いついたから言っただけだったからだ。
「ありがとう……!! 本当に」
ミーちゃんに赦されしジュン君が顔を上げた時、いつの間にか湯飲みの下の鳩サブレは粉々に砕けていた。まるで……そう……昨日見た月のように!