朝も終わると街は一面の年末景色で、冷たいコンクリートの上を、湯気が出るような納税者たちがごった返していた。彼らを取って食おうとしている怪物は多く、生きた蕎麦の店頭販売、落ちるナイフのつかみ取り、ポリコレ棒の歳末セールなど、枚挙に暇がない。
キリウ君もつい先程、サイレントテロリスト向けの餅つき合宿の勧誘を振り払ってきたばかりだった。本当は是非とも行きたいとキリウ君は思っていたが、今年はクリスマスケーキの押し売りに加担していたことから引け目を感じ、断ってしまっていた。
いや、実際には……合宿先に面倒ごとを持ち込みたくなかっただけなのかもしれないが。キリウ君は今、左上原まで出刃包丁を買いに行くために、誰もいないプラットフォームにひとり佇んでいる。
『大晦日〜。大晦日駅です』
ドアから降りてくる人波は、内側に脂肪がこびりついてガチガチになった血管から溢れ出すドロドロ血液のようだった。突き飛ばされながらそれを見送って、やっとキリウ君が乗り込んだ車両はガラガラだった。
ガラガラだから、普段はなんとなく気が引けるボックスシートにも座り放題だ。そう思ってキリウ君が喜んでいると、しかし覗き込んだ席には――すでに別のキリウ君が座っていた。
「うわっ!」
どちらともなくキリウ君が声を上げる。この時、互いにものすごくイヤそうな顔をしていたのが、互いをまた印象深くしていた。
立ったままのキリウ君は動揺を隠しもせずに飛び退くと、もう一人の自分にダメ出しした。
「さすがに気が早すぎないか? まだ真昼間だろ!」
これはキリウ君が一理あった。一般にキリウ君・ミーツ・キリウ君現象はフレックスタイム制だと言われていたが、コアタイムは16時から25時だった。
「何が?」
一方、もう一人のキリウ君が、嫌悪感を剥き出しにして聞き返す。その心は、突き詰めると自己嫌悪なのだろう。
恋人がドッペルゲンガーに対して横柄な態度を取る時は要注意! それは、結婚してからのあなたへの態度だからです。マジです。そんなだから、キリウ君は一気に照れくさくなってしまって、モンゲラモンゲラしながら言った。
「それを俺の口から言うのはハラスメントになるからダメ」
ハラスメントをほのめかすことで相手にプレッシャーを与えることはハラスメントハラスメントと呼ばれ、2019年のトレンドとなる交渉術だとされている。しかしもう一人のキリウ君は鼻で笑った。
「そういう駆け引きには乗らねーよ、セクハラ野郎。ていうか、なんで俺がいるのさ。パクリ?」
キリウ君はもう一人のキリウ君の刺すような視線を物ともせず、ボックスシートの向かいに座る。内心では、自分の発言のどこがセクハラだったのか分からなくて、気が気ではなかったのだが。
「パロディだよ。でも、俺とお前のどっちがパロディなのかをこれから決めるんじゃないの?」
「なんだか知らんけど急に言われても。ていうか、新手の逆ナンパ?」
「バカ! 俺は硬派だ」
「じゃあ俺はタカ派!」
俺ってこんな取りつく島も無いような奴だっけ?
ふと、キリウ君は違和感を覚えて黙り込んだ。いま相対しているキリウ君には、キリウ君に成り代わろうという根性が欠片も無いように思えたからだ。
考えてみるとキリウ君は、自分が何者なのかも定かではないのだという事実に気づいた。2017年の暮れにキリウ君が世界を粛清したことは記憶に新しいが、果たしてあの後、いったいどうやってキリウ君が2018年のキリウ君に就任したのだろう。キリウ君にはこのサイトが作られて以来のすべての記憶が有るはずだったが、不思議と去年以前の記憶は細部が思い出せず、曖昧だった。kiriukun.comの権利書ってどこに仕舞ったんだっけ。
アイデンティティが揺るぎかけたキリウ君は、引っ叩きたくなるような顔をしているもう一人の自分を見た。そいつはすでにキリウ君に興味を無くしていて、両手で抱いた荷物を見つめているだけだった。
風呂敷に包まれた、真四角の箱型の荷物だった。クリスマスケーキにしては遅すぎる。それを指差して、キリウ君は尋ねた。
「俺さ、真昼間から何してるの?」
もう一人のキリウ君は、周囲に誰もいないのに声をひそめて答えた。
「俺のくせに、見てわかんないのかよ。脱法おせちの運び屋してんだよ」
なんてこった。こいつは年を越す気満々だ。
キリウ君は戦慄した。しかし言われてみると、近年は大晦日で手一杯で、正月のことなんか考えたことがなかった。思わず目が泳いだキリウ君に向かって、今度はもう一人のキリウ君が尋ねてくる。
「おせち食べたことある?」
「……無いね。無いし、伊達巻きをネタにする程度のリテラシーしか無い」
「俺も同じさ。だから、カマボコが何でできてるのかも知らない」
もう一人のキリウ君は悲しそうに笑った。もっとも、二人が本当にネタにしたかったのはチョロギだったのだが。
「これ持ってっていいよ」
唐突にそう言うと、もう一人のキリウ君は、正面にいるキリウ君の膝の上に勝手に荷物を乗せてきました。キリウ君はたいそう驚いて、顔を上げました。
「運ばなくていいの?」
「うん。よく考えたら俺、大晦日なんて分かんないし」
その言葉でキリウ君は直感した。こいつはキリウ君の姿をしているが、今はまだ、心までキリウ君ではないのだ。恐らく、なぜおせちに伊達巻が入っているのかも理解していないに違いない。けれど、いずれはキリウ君になるべき存在なのだ。
『次は正月〜。正月駅です。急行・バレンタインデー行きにお乗り換えのお客様は……』
どこか笑いを堪えているような車内放送もまた、キリウ君の声をしていた。この世にキリウ君の声を聴いたことがある人なんて居ないのにだ!
やがて、列車は正月駅に到着した。ドアが開いたことで、致死量ギリギリまで高まっていた空気中のキリウ君の濃度が一気に下がっていく。キリウ君は立ち上がったが、もう一人のキリウ君が座ったままなのを見て、声をかけた。
「降りないのか?」
「俺はまだ降りれないよ」
それは深淵を見つめながら自問自答するのと似ていた。答えは分かっていたが、プロレス的には必要なやりとりだった。
「来年末には来いよ! 来て、おせちのリメイクしようぜ」
再来年もおせちを余らせる気満々でキリウ君が言う。もう一人のキリウ君は、右手でピースサインを作って、邪悪な笑みを浮かべて応酬した。
「首洗って待ってろよ」
もっとも、この時、キリウ君も相当にニヤニヤしていたのだが。
――2019年は地獄の年になるだろう。キリウ君たちがそれを望むのなら。