ぼくは遠くから声をかけた。アホみたいに千歳飴がぶちまけられたビルの屋上で、花火大会を256時間も見上げているキリウ君の背中に。
ぼーんぼーんと低い音が今日もコンクリートを叩いている。それとともに飽きることなく弾ける光が、煤けっぱなしの空をさらに暴力的なまでに灼き続けている。ふいに真ん中に、蝿のような無数の天使を連れた逆さのクジラが現れた。その変なものが、降り注ぐ火の雨の上と下のどちらにいるのかは判らない。すぐにもっと巨大な煙の渦に呑まれてしまったから。
ぼくが少し近づいても、キリウ君は金網に張りついたままで、振り返りもしなかった。脂っぽくてじめじめした風と遊んでいる彼の髪先は、今日も今日とて久しく見ていない青空の色をしていた。
なあ、キリウ君、空が青くない世界に空色という言葉は生まれるのかな。血が赤くない世界には血の色を意味する言葉が生まれたのかな。キリウ君……。
つま先に当たって転がった千歳飴は砂埃にまみれており、どれもこれも真っ二つに折れていた。キリウ君が全て折ったのだ。祈ってもいた。全てだ。でも全てじゃない。
去る512時間前、キリウ君は折れてない千歳飴を渡してきて、ぼくが折るよう仕向けた。1024時間前、彼はこの世のものではないハッシュアルゴリズムでひとりブロックチェーンを始めていた。それは六次元空間じゅうに波動レベルで存在するキリウ君を全て同時に消滅させない限り止まることなく、改ざんされる余地と意味と価値がなく、キリウ君にまつわる全ての愛を半永久的に記録し続けることを目的としたものだった。しかし奇妙なことにそれは、実際には彼自身にすら、むしろ彼自身には決して承認することができない合意形成アルゴリズムを採用してもいた。
とにかくぼくの理解できる範囲内では、その承認方法は限りなく自殺に近いもののように思えた。それがキリウ君の意図したことであったかどうかは、ぼくにはわからない。ただ結局のところ、ぼくには折った千歳飴のぎざぎざの腹をキリウ君に向けることがせいいっぱいだった。そして右から入って上に抜けた全ての言い訳が温帯低気圧に変わり、ぼくの脳みその左半分にカビを生やらかした。
だからだろうか? ここのところ、殺し文句が思い浮かばない。それに、ものすごく音痴になった。代わりにメレンゲの声が四六時中聴こえるようになったが、そんなのはどうでもいいことだろう。あの日、震える手で千歳飴を向けているぼくの目の前で、キリウ君はおのれの首元を指さして、おぞましいくらいの笑顔を浮かべていた。そのあと落胆した彼は、ぼくを2048で割った余りを秘密基地に招いて、日が暮れるまで汚い金を転がしたらしい。ぼくも招かれたことないのにだ!!
ぼくはうんざりしていた。自己中のキリウ君にもだが、何よりロリコンの自分自身にうんざりしていた。けれど皆んな同じだろう、特にここ数日は。この悲しい花火大会が始まってからは。
なあ、キリウ君は、こんな週末の過ごし方をいつから想像していたのかな……。
一際強く風が吹いた。その直後、金網を挟んでキリウ君の目の前に花火のひとつが着弾する寸前、咄嗟にぼくは自分の身を庇った。正確には自分の傷つきやすい心を。すさまじい閃光と揺れのあと、煙と耳鳴りの中で、ひしゃげて真っ赤に融けた金網にぐちゃぐちゃのキリウ君が焦げ付いているのを見たぼくは、大きな声で言いがたい感情を覚えた(いまあなたが想像した感情です!)。
しかし頭がおかしくなるより先に、次のキリウ君が画面外から金網の前に降ってきた。最高の着地を決めた彼は、前のキリウ君の死体に一瞥もやらなかった。代わりに掻っ攫うように千歳飴を一本拾って、こちらに向かってダーツよろしく投げつけてきた。
動けずにいたぼくの背後で死にかけのセミのような奇声が上がり、びっくりして振り返ると、赤い複眼と硬い翅を持った天使が地に落ちていた。その、体に刺さった千歳飴を抜こうともがいている生き物の頭を、キリウ君はさらに踏み潰して、蹴とばして、屋上から追い出す。
やがてこちらを見たキリウ君――がニヤッと笑うのと同時に、ぼくは自分が何かを受信したことに気づいた。そしてそれが1024時間前に発信されていたものだということにも。
駆け寄ってきたキリウ君に抱えられて、次の瞬間には高く高く空を飛行しながら、ぼくはそれが愛であることを理解した。とても嬉しかった。心があたたかくなるのを感じた。長引いていた風邪が治った。
けれど…………しかし。
この世界はもうダメかもな、とキリウ君が花火に負けないように声を張り上げる。確かにそうかもしれない。だってキリウ君は飛べないはずだ。キリウ君の背中に翅なんか無い。非実在電波少年は空を飛べない。もし、そんなものがあるなんて話になったら、もうメチャクチャだ。
なあ、キリウ君、あの複眼の天使には空色の髪が生えていたよな……。
舞い散る銀色の翅の欠片に紛れて、煙の中から同じ天使の死体がいくつも落ちてくるのを、ぼくはキリウ君のようなものにしがみ付きながら眺めている。あるはずのない彼の銀色の翅は、悲しいくらいの花火の光で虹色に輝いている。ふと彼の横顔を見ると、泣きながら笑っていた。その時ぼくは、たとえキリウ君がキリウ君ではなくなってしまったとしても、六次元空間じゅうに波動レベルで存在するキリウ君が全て同時に消滅したとしても、ぼくだけは彼がくれたものを覚えていたいと願った。