14.ムは無慈悲のム
亡者をうんざりさせるための場所が鬼にとってもそうでないわけがなく、基本的には絶望的にできているこの場所で、むしろ今までよくこうはならなかったものだ。
そう心の中で呟くのは基地嶋だ。かれは今、赤い霧の真ん中をひとり彷徨っている。エレベーターを降りた先は赤黒い霧と薄闇に覆われた荒野で、基地嶋はコンパスを頼りに歩くキリウの後ろをついていくように歩いていたはずだが、内心の不安に反応してエーテルが幻を見せたのか、誤って存在しない人影を追いかけてはぐれてしまった。
それは基地嶋に、幼い時分に人混みの中で母親とはぐれた時のことを思わせた。そのような記憶があるからといって、母親に愛情のある基地嶋ではない。父親もクズだが母親もまたクズだった。そう噛み締めて努めて冷静さを保ち、キリウに再三のテレパシーを送ってみるも、数メートル先も見えない濃い霧に遮られてしまうのか梨の礫である。
大声で名前を呼んでみようかという発想は、地獄に流れ着いてからこれまで常に息を潜め身を隠してきたはぐれ鬼の基地嶋には無かった。正確には全く無くはなかったが、そんなことをすればすぐにでも、濃い霧の中から鬼よりも恐ろしい何かが飛び出してきて吊り上げられてしまうように思えてならなかった。
鉄臭くないだけの血のようにしか見えないこの赤い霧は、身体にまとわりついてじりじりと焼くようなイヤな熱さを持っている。反面、この空間自体はこれまでの熱気が嘘みたいに底冷えがして、エレベーターやシャフトの奈落に続く暗闇と同じものを感じさせた。
基地嶋にはシャフトを覗き込んだ経験があった。地獄に来てそう経っていなかった頃だ。そのとき基地嶋は直感していた――ここから出ることはできないのだと。
こんな場所に一人きりでいることの不安がそうするのか、耳の中で頭の内側の音が鳴り響き、今の基地嶋には自分の足音が聞こえない。このとき基地嶋は、自分はキリウに置いて行かれてしまったのかもしれないと本気で思い始めていた。それはかれが過去にキリウへ働いた無礼の数々からくるものか、もしくは度々見てきたキリウの薄情で残酷な側面がそう思わせるのか。とにかく、そう考えないだけのことがなぜか無性に難しかったのだ。その邪念は不自然に捻じ曲がったものではなく、ごく自然な未来あるいは過去として、基地嶋の中に湧き上がってきたのだ。
地獄にいると基地嶋は、自分がわからなくなる。
それは今に始まったことではなく、もうずっとそうだったけれど。こうもわからないのに、何でもって自分を自分だと思えるのかといえば、それはきっと罪よりも罰なのだろう。たとえそれらが自分のものだと信じられなかったとしても。
少なくともキリウはそうなのだろうと基地嶋は思っていた。親不孝者のキリウ、あの少年は地獄での基地嶋のただひとりの友達だった。
基地嶋にははぐれ鬼の仲間たちがいた。考えることも信じるものも、はぐれ鬼となった経緯も様々な彼らが寄り集まって生きるのは、ひとえに地獄から抜け出すこと、あるいはそのための情報収集を共通の目的としているからだ。いま基地嶋がここにいるのも、つまりキリウの不思議な誘いに乗ることを決めたのも、彼らのアドバイスを聞き入れたことが理由の一つだった。
それでももう一つの理由は、キリウを信用していたからだ。基地嶋が友達と呼ぶのはキリウだけだった。
頭の中の音は徐々に大きくなっていた。できればどこか岩陰などに身を隠したかったが、先程から周囲には驚くほど何も無い。次にまぶたが降りて視界を遮ったその一瞬、基地嶋は頭の天辺から正気が抜けかけたのをはっきりと感じた。それはL5の強い重力に押し込まれて骨と皮の中にとどまったが、しかし同時に基地嶋の足は、下に何も無くなったように感覚を失っていた。
破調だ。ほどなくして、基地嶋の鬼の身体に異様な不快感が湧き上がってきた。はらわたを掻き分けて腹の底から魂が出てきそうな痒みと鈍い吐き気、内側に皺が寄ってすべてが捻れる感覚。それが明らかな苦痛を伴っていることに遅れて気付いた基地嶋は、思わず、生物の本能が痛みを避けるのと同じ勢いであらぬ方向に跳ね上がった。
この霧の中にいてはいけない。ここにとどまっていてはいけない。
そう認識するより早く(認識するほうが遅く)、かれは落ちるように駆け出していた。地獄で無暗に走ることほど愚かなことは無いが、この時の基地嶋には周囲の危険を気にしている余裕など無かった。
細くなったまま戻らない呼吸は、光や雨粒以外の何も遮らない形だけのガスマスクを通り抜けるのもやっとだった。基地嶋は、はぐれ鬼になって以来のじぶんの顔の一部であるはずのそれを久方ぶりに邪魔に思った。それはとある放棄された刑場、ガス地獄の倉庫をひとりで漁っていた時に見つけたものだ。ガス地獄とて鬼にほんとうにガスマスクが必要かと言えばはっきり不要で、あくまで亡者たちを恐怖させるためのアイコンにすぎない。しかし弱い自分を地獄の薄闇の中に埋めてくれるそれは、いつも基地嶋には安心感を与えてくれる。
だけど今は、たぶん今だけはそうではなかった。焼けるような喉の痛みに追い立てられて、力任せにそれを引きちぎろうと、ヘッドバンドに手をかける。
その瞬間、ふいに霧の中から飛び出してきた人影が、基地嶋の身体に勢いよく横から衝突した。
頭の中の音が消えた。魂を取り落とさないよう咄嗟に宙を掻いた基地嶋は、思わず瞑った目を開いたとき、ひょろがりの自分が地面に倒れていないことを意外に思った。
だからか、突っ込んできたそれがキリウであることに基地嶋が期待した時間は皆無だった。あるいはもともと、基地嶋は悲観的な性格だった。そして実際のところ、それは付近の刑場から脱走してきたと思しき若い女の亡者だった。
棒立ちの基地嶋をよそに派手にすっ転んだ彼女は、餓鬼よりも歪な傷だらけの裸体を庇うように腕を振り回して、大声で喚いていた。何の言葉にもなっていないそれは、少なくとも強烈な拒絶の声だった。
泥と砂埃で全身薄汚れたそいつを見ているうち、基地嶋は驚くよりも妙に冷静になっていた。不思議と身体の不調も消えていた。大声で周囲の霧の中にいるかもしれない何かをおびき寄せたくなかった基地嶋は、慎重に声をかけて彼女を黙らせようとした。
「おちつけ、おれは、おまえを痛めつけたりしない」
鬼ではあるが獄卒ではない基地嶋は、亡者の目には恐ろしい怪物ではなくただの子供に見えている。基地嶋が以前キリウに聞いたところでは、その機序は恐怖症的なものに似ていて、亡者から見た獄卒は、亡者個々の魂にとって最も生理的な嫌悪感を催させる姿をしているのだそうだ。だからどんなに地獄で痛めつけられても、慣れることなくいつまでも鬼を恐怖するのだ。しかし錯乱状態に陥っている彼女にはそれが判らないのか、基地嶋の細い声を聴き貧相な体躯を視認しているにも関わらず、ひっひっと激しく息を吸い込むことをやめようとしない。
人間だった基地嶋の目に映る獄卒はどのような姿になっただろうか?
いつまでも黙らない女に苛立って、基地嶋は自分の目元が強張るのをはっきりと感じた。こいつもL5の亡者だ、クズに違いないのだ。湧き上がってきた怒りに気づいた基地嶋は、務めて口を噤んだまま、その場から立ち去ろうと歩き出す。
「ねえー!」
しかしその途端にサイレンのような大声で呼び止められ、驚いて振り返った基地嶋の足元に、あろうことかそいつがゴロゴロと転がってきた。
転がってきたとしか言いようのない動きだった。暴れすぎて壊れたのか、なんだか全身の関節がおかしな方向にひん曲がって見えるそいつが、先程までの前後不覚が嘘みたいに強烈な視線で基地嶋を見上げていた。恐怖や絶望というよりは幾らかの怒りと敵意、むしろ行き場の無い怨嗟に満ちた視線だった。
目の前に獄卒がいない亡者というのは往々にしてそうであることを、基地嶋は知っていた。
「ねえー!」
再びの大声に、基地嶋は思わず両手で耳を覆った。ばっくり開いた女の大口からしぶいた唾液が、基地嶋の身体に散っている。「ねえー!」「ねえー!」繰り返されるたび歪んでいく声と共に、女の眼球はぐりんぐりんと裏返りだしていた。
「ねえー!」
どうすればよいかわからず固まっている基地嶋の足元で、そいつが口から噴くものは、次第に赤黒い泡へと変わっていった。痙攣するようにのたうつ身体も端から黒く変色しつつあり、腐肉を思わせるぶよぶよの汚い腕が、灰色の地面を何度も叩いて苦痛を主張していた。
あるいはそれも怒りなのかもしれない。亡者の体液にまみれた足をおもむろに持ち上げ、基地嶋はふと、こいつを蹴り付けたらどうなるのか興味が湧いた。
それを許さないかのように、女は孵化した。
まるで地獄の空気を吸いたがっているみたいに。骨と肉の塊をこねまわしたようなそこから、膨れ上がるようにして現れたのは、巨大な禿頭だった。頭だけではその場から動くこともできないので、それはただ、中身がこぼれ落ちそうなほどに眼と口をかっ開いて叫ぶばかりだった。
「ねえー!」
飛び退ききれなかった基地嶋に、今度は悪臭のする血混じりの涎が噴きかかった。その音は粘着質な液体をなんもはばからずかき混ぜたような響きを帯びていたが、生物の声色としては、先程までの彼女のものとまったく同じだった。彼女は変わらずそこにいた。ただの女の魂はまだこの大きな醜形の中に埋まっている。恐怖も怒りも怨嗟も、何一つ変わらない出力でそこから放たれ続けていた。
しかし魂の大きさが変わらなくても、現に彼女の図体は基地嶋を易々と轢き潰せるほど膨れ上がっていたのだ。肥大化した舌がびたんびたんと振り回され、すぐそばの地面を重い音とともに抉ったのを見て、基地嶋はごく原始的な危険を察知した。女は岩のような歯で自分の舌を傷つけながら、今や凄まじい叫び声となった「ねえー!」を繰り返している。
基地嶋は半ば放心して、ガスマスクのレンズに飛んだ女の涎を指で拭った。このままこんな化け物のそばにいたら、すぐにでも打ち殺されるであろうことは容易に想像がついたが、なんだか先程から脳を吸われたかのように現実味がなかった。なんなら、こいつは視力と動体視力だったらどっちのほうが良いのかななどと考えていた(それは以前にキリウが鬼車の荷台からこちらをまっすぐ見つめてくるでかい犬を見て言ってたことだな)。
鬼が死ぬというのは未だによくわからないが――。さんざん道すがらの刑場で、時にはひどく凝った手法で粉微塵になるまで痛めつけられる亡者たちを見てきた基地嶋には、これに轢き潰されて自分がそうなるというのは、なんというかひどく芸が無いように思えた。
どこかで雷鳴がした。
一瞬遅れて、頭上から弾丸よりも速く降ってきたのはキリウだった。それがキリウであることに基地嶋が期待した時間は皆無だった。運良く基地嶋のほうから見つけることができなかった時、キリウはいつだって突然現れるからだ。
驚く間も無く吹き飛ばされてひっくり返った基地嶋の眼前に、一緒に飛び散っていたのは、額を割られた女の頭から弾け飛んだ夥しい量の体液だった。
キリウはどこがどうなってんだかわからない、それでいて確実にスコップの一種であることがわかる何かを携えていた。それ自体は煮えたぎる血の池を苺ジャムの鍋みたいにかき混ぜるためのものだが、そんなことはどうでもいい。「ねャーああ゛!」まだ鳴いている女にも負けない大声で、キリウが叫んだ。
「死ねっ!!」
凶悪な響きに反して、本当のところはそれ以外にかける言葉を知らないだけなのかもしれなかった。キリウが亡者のまだ柔らかい瞼に斬撃も同然にスコップを蹴り込んでいた。そして破裂した眼球のどろりとした中身が地面に滴り落ちるよりも速く、スコップに向かって地獄の雷が放たれた。
女の肥大化した全身は丸焦げになる間もなく爆散しながら蒸発し、次の瞬間には強烈な悪臭をともなう大量の黒い煙となって掻き消えていた。後には跳ね散らかった火花の僅かな焼け焦げ痕しか残らなかった。
そんなものを顧みもせず、放出したエネルギーで髪が逆立ったままのキリウが、倒れている基地嶋につかつかと寄ってくる。
「迷子になってんじゃねえよ基地嶋ぁ――」
くわっと目と口を開いて恐ろしい形相になりかけた獄卒キリウは、しかし女の体液にまみれてへたりこんだままの友達を見てか、ふっと普段の様子に戻って言った。
「大丈夫か? すっごい探した」
言葉通り心配げに見つめるキリウを前にしても、基地嶋のガスマスクの奥で強張った顔は元に戻らなかった。基地嶋を助け起こしたキリウは、実際のところそれよりもL5のおのれの出力に高揚した様子で、真っ赤な瞳にうっすらとプラズマ色の光を湛えていた。
「ねえ、今の俺、けっこうすごくなかった?」
「なんで亡者が、あんなんなるんだ」
キリウは基地嶋の顔と、基地嶋の視線の先、女が吹き飛んだ空間とを見比べた。そこにはもう赤い霧以外のなにも無かったが、基地嶋にとってはまだそうではない。少しの間のあと、キリウは軽く息をついて答えた。
「責苦って、人間程度の大きさじゃ、地獄の深いとこは耐えがたいし。身体デカくして魂を薄めれば、苦痛の総量が増えても平気になるから。鬼も似たようなとこあるだろ」
「あたりまえにゆうよな……ひどいもん見た」
うんざりしたように言うわりに、心底の安堵がじわじわと湧いてきて再び崩れそうになった身体を、基地嶋はかろうじて自力で支えた。キリウが無言で手渡してきた傘は柄が焼けるように熱くなっていたが、赤い霧よりも痛いはずのそれが今はそこまででもなく感じていた。
「はぐれてわるかったな」
ガスマスクのずれたヘッドバンドで乱れた髪をぐしぐしと掻いて基地嶋が言った時、キリウはすでにコンパスに目を落としていた。それがキリウの無神経さと優しさのどちらからくるものであるかは基地嶋には判らない。ただその少し眠そうな横顔に向かって、基地嶋は声を潜めて呟いた。
「キリウ、おれ、何しにきてるんかね」
その言葉を聴いたキリウは、とくに表情を変えずにコンパスをしまい込んで、基地嶋に向き直った。
「地獄の一番下、見て帰ろうぜ。それだけでいいよ」
キリウが言ったそれは、おそらく根本的にはキリウ自身がしたいことなのだろうが、それを基地嶋と一緒にしたいと思ってくれているらしいことが、今の基地嶋には無性に嬉しかったのだ。