バッティングセンター経営に飽きたはずの男が、アフィリエイトで命を落とした知人からこの音楽スタジオを継いだのが、数年前のことだ。実はその男ははるか昔に税務署で出会った死神との約束を完全に忘れていて、先日うっかり何の準備もなしに連れて行かれた顛末があるのだが。
「住民票も売っちゃったし。ちょうど部屋も爆破されちゃったし」
「キりゅーさん、自分で爆破したんじゃないスか」
そんなことを知る由もなく、ペン一本すら転がっていないカウンターに突っ伏してるのはキリウ少年である。キリウ少年はこの街の彼の全部をなくそうとし、ついになくしたばかりの電波野郎だ。どうやら本格的に出ていくつもりらしい。
煮詰まってきたところで、そいつはその手に握り締めていたピーナッツを床にばらばら落として、顔を上げた。
「そう。犯人は俺のもう一つの人格で、虚飾にまみれた俺を壊そうとしてた」
なんだか知らないが見つめられた青年、もとい社会人バンド『フレデリック・シアター』クラリネット野郎は、いかにも困惑していた。
「嘘だよ。うちに届いた爆弾を、3Dメガネをかけてたせいで解体しそこねた話なんだけど」
「頭湧いてるッスねえ」
切り捨てるふうな口調に反し、クラリネット野郎は内心いくらか目の前のガキに同情的だった。なんせそいつは、死んだ恩人に花を手向けるためムキになっていたかと思いきや、ピーナッツを山ほど抱えて帰ってきたのだから。
あれから――いわく「ぽっと出の親族どもにさらわれた」オヤっさんの死体を追って、キリウが出向いていった例の街は、豆鉄砲(ほんとにピーナツを撃つ)を満載した殺人ドローンまみれになってしまったのだそうだ。くだんの喪服美少女から、ありのままの話を聞いた叔父上が配備したに違いない。
もはやハートをギザギザにせずしては、無難な花を投げ込んでくることすら困難だったという。今日、バンドの面々が予約の時間に来たとき、キリウは持ち帰ったドローンの残骸の腹からピーナツをつまみながらそう語った。でも練習が終わって出てきた頃には泣いていた。豆鉄砲が痛かったわけじゃない。遺産目当て呼ばわりが辛かったわけじゃない。ただ少年はブチ切れていた。
だけど「自分らも世話になったから挨拶に行きたい」とパーカッション野郎が言ったから、全面的に癒されて事なきを得たのだった。
ずっとすみっこでサッカリンの花束を食い散らかしていたトランが、転がるピーナツを追ってのろのろ動いている。それを眺めるキリウの血走った目はどこか愛しげだ。クラリネット野郎からすれば、ぜんぜんなつかれなくて引っかかれまくってるくせにとしか思えず、トラン自体もひたすら不気味な生き物にしか見えず、まったく不可解であったが。
クラリネット野郎とキリウは、何年も前に電波塔の天辺で知り合って以来の縁であった。本来ならそれきりになったはずなのに、その後オヤっさんが音楽スタジオを始めたので、キリウが「うだつのあがらん音楽家の知人を片っ端から当たった」過程で再び付き合いが始まった。
辺鄙なとこで治安も悪いけど、異様に安くて広くて音は出し放題、キーボード食べ放題、ブルドーザー乗り放題――この街に直接の縁がある者こそいなかったが、ちょうど近隣の街のプチ貧乏人ばかりで構成された『フレデリック・シアター』はすぐ常連となった。オヤっさんはこんな街の人間とは思えないくらいしっかりした人だったし、キリウも自分が引っ張り込んだのだからと世話を焼いてくれた。護身用スタンガンの扱いにも慣れた。
だけどそれも終わり……か。
何の気なしに楽器ケースを背負いなおしながら、クラリネット野郎は頭痛薬を口に放り込む。彼が学生時代、電波塔監視のバイトをしていた頃に患った片頭痛のため、いつも持ち歩いてるものだ。キリウに相談したら、それは電波塔のせいだと言われて怖くなって、バイトはやめてしまったが、もう良くなる気配がずっとない。ないけど、バンドマン的にはなんだかカッコイイので、彼は特に気にしてもいなかった。
ドローンはジャンク屋行きだし、サッカリンとピーナツもトランがなんとかしてくれるだろう。それらを差っ引けば、もはや待合室にはなんにもない。このスタジオは明後日から、三本腕の未亡人オーナーによる憂鬱と情熱のこども音楽教室に生まれ変わる。彼女は元保母で、生前オヤっさんとは紅茶とともにFPSをたしなむ仲だった。
「いっそこの街が爆発しちゃえばよかったんだ」
「まあ、うちら別に困んないスけど」
「曲できたら、どっかラジオに送ってよ。俺、きいてるから」
「だから、うちらコピバンなんスけど」
そろそろ育ちの良いギター野郎が、中学生並みの門限を気にし始めたので、二人は駄弁るのをやめた。
法螺貝ピアノ野郎が、もらった備品のシンセサイザーを抱えて身重に立ち上がる。こいつは今日まで少しずつ、表に積んであるジャンク屋行きの機材を半分も持って帰ってしまった貧乏性だ。マイクどころか、黒いゴミ箱か何かまで持っていこうとした時、さすがにキリウも笑いながら引きとめていたが。空を飛ぶには重すぎると。
……ああ、そういえばあれは、よくキリウが頭にかぶっていたやつだな。
「片付け手伝ってくれて、ありがとう」
「うい」
どちらにせよ空など飛べるものではないが、今のキリウはその時と同じように笑っていた。
「キりゅーさん。お元気で」
扉をくぐって出ていく前にクラリネット野郎が挨拶すると、キリウも返してきた。その腕に、ギイギイ鳴くばかりの奇妙な生き物を抱えながら。クラリネット野郎はその少年のことを存外何も知らなかったし、言ってることもほとんど理解できなかったが、恐らく二度と会えないとなると、少し寂しく思っていた。
異形のカラスが夕暮れの陰で歌う。近頃はやたら風が冷たく、今日もあっという間にひんやりしてきた手をポッケに入れて、うだつのあがらん音楽家たちは息を吐く。
旅に出るには寒すぎる。