93.黒いリボンと青い空
それから何年か経って、キリウ少年が、列車を二回乗り換えたくらいの街を訪れていた時の話だ。
「……養子が……」
雨上がりの石畳を這うでんでんむしのカラは、叩き鳴らされた傘の先端で、うっかり簡単につぶされた。
「……爺さんに、おれらの誰も知らない書類上の子供が、ウジャウジャ」
植え込みの陰から向こうの様子を伺っていたキリウは、飛び込んできた男の声に粟立った。十中八九おのれに関係あることのような気がしたからだ。
案の定であった。
「……あの街で?」
「…………」
男がワンテンポ遅れて、「上から下まで犯罪者だらけ」と苦々しげに付け加える。
墓標を見下ろす若い夫婦だ。彼らはどこか声をひそめている。その下にいる者を見送った弔問客たちの残りが、広大な霊園をいまだまばらにうろつく真ん中だからだろう。眠る赤子、いつかでんでんむしを食べて手術沙汰になるとはつゆ知らず、そんなのを腕に抱いた女が、不安げに男に寄り添う。
「……遺産目当てのクズどもだよ」
それを聞いたおっかさんは、この世の悪意が信じられないといった面持ちだった。だが内心では、旦那さん自身もまた同じようだった。
でも、キリウもびっくりしていた。ここン十年ほど身元の証明をお願いしていた関係だなんて、何も知らない人たちからするとそう見えるらしい、という現実的な話に対してではない。どちらかというと彼らの身なり、葬送の規模が、少なくともそこらの小金持ちのそれではなさそうだということについてだ。確かに彼らは狙われるだけのものを持っているのかもしれない。
だから詐欺師呼ばわりされても、キリウは胸がキュンとするだけで済んだ。同時に少し悲しくなり、故人のグチャグチャの戸籍も何もかもポトフの鍋に突っ込んで、いいにおいをつけたくなりもしたが。
「……のこのこやってきたら……まさか嫌がらせにサッカリン(※)持ってきたら……ただじゃすまさねぇよ」
※花の名前。
もうキリウは、片手に下げた紙袋から飛び出しているサッカリンの花束を見て頭を抱えた。サッカリンは故人が好きな花だったはずだとキリウは記憶していたが、しかしここに着いてからというものの、彼は周囲のひっどい視線から半ば嫌な予感を抱いてはいたのだ。まさかこの街では縁起が悪い花なのではないかと。
果たして事実。趣味の悪い冗談だが、ある意味では故人らしくもあった。
「……いや、弁護士に頼んであるけど、半分くらいはもう死んでるって。だが残りの半分は、足取りすら……」
気にすんな全部死んでるぜっ。
などとヤケクソじみて息を吐いたキリウをよそに、男は苛立たしさを隠そうともせず指を鳴らしながら続ける。
「……おれが行った時……あれ……、逃げたんだよ、真っ青な頭した……にーな(※※)と同じくらいの……」
※※姪の名前。
「……とっくに耄碌してたんだ。おやじもなんで放置して……」
そんなとこ引きこもって不義理な書類上のガキをくっつけたくなるくらいにそいつを寂しがらせたのは貴様らだバァーカ! 死体ひとつ引き取りにくるのに露骨な警備はべらせやがって! いけすかねー!
などと崩れ落ちて、植え込みにボフッと頭をうずめたキリウは――いつの間にか、すぐ隣に少女がしゃがみこんでいたことに気付かなかった。
「あれは、きみの話?」
だから彼女からひそやかに声をかけられて、キリウはまたびっくりした。立ち上がって襟を正して向き直る。彼は今日、誰とも関わりを持ってはならないというルールを自分に課してここに赴いたはずなのに、この時すぐに走り去ることができなかったのは。なぜなのか。
「真っ青な髪。お爺ちゃんの遺産目当て?」
「ちがう」
咄嗟に答えたキリウの髪についたままの葉っぱの欠片を、少女の白い指がそっと払う。にこりともせず首をかしげる彼女は、黒いワンピースの喪服がとてもよく似合っているようキリウには思えた。
「友達……すごくお世話になった」
「そんなにトシが離れてて、話が合うの?」
そう言う少女の目には好奇心があるようで無く、年ごろからすれば、恐らく故人の顔も知らないのだろう。ろくに話すら聞かされていなかったとしても不思議ではなかった。なんせこの日キリウが理解できただけでも、『先祖代々の家業をボロクソにけなし』『勝手に商売の才を爆発』『若くして街いちばんの高額納税者に』『しかし早々に気を違えて』『アクセスも治安も最悪な街に隠居』『資産をいっさい整理せずに急死』などと並べ立てられていた男なのだから。
少年は特に意味のない質問を笑ってはぐらかした。代わりに答えた。
「心配してるとこ安心してほしーけど、俺らの誰も何も奪いにはこない。あの人に伝えてもらえますか」
それを聞いた彼女は不思議そうにキリウを見つめた。
「叔父さんね、怖いけど、悪い人じゃないの。でも口が臭いから、私ムリかも」
どうもこの子が『にーな』かもしれないな。だがそんなことはどうでもいい。この時キリウは、ここに来てからの何もかもがどうでもよくなっていた。なぜなのか。
それはきっと彼女が美しかったからだ。
「オヤっさんの……キミの爺ちゃんのおみやげ」
キリウはいつの間にか足元に落ちていた紙袋を拾って、花束を抜いて彼女に渡した。中身はラッピングされた瓶詰めの例のアレとかだけど、それも別にどうでもいいことだろう。
彼女は特に中身を改めることはせず、小さな声でありがとうと言った。相変わらず不思議そうな顔でキリウが抱えてるサッカリンを一瞥して、ぽつりと尋ねる。
「それ、いいの?」
ひしゃげたセロハンから飛び出した一本は、まるで頭を食いちぎられたがってるみたいにキリウには思えた。
でも振り切るように、彼はどこでもないどこかを見た。そして膝丈の黒いスカートの裾のことをできるだけ考えないようにして、少女に背を向けて、花束を抱いて歩き出した。
高い柵の向こうに晴れ渡る空はあの日と同じ青だ。どの日だ。もうわかんねえ。