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92.お天気雨

 同じ空の下で……。

 黒い箱をかぶってボーっとしていたキリウ少年が、がくんと眠りそうになった勢いで、頭からそいつを転げ落としていた。そういう意味では、お天気雨が降っていたために引き戸の内側からベランダに脚を投げ出して座っていたのは幸運だった。晴れていたら手すりの上で外を向いていただろう。

 もはやこの電波を止める以外に無い、と思い立ったが吉日。飛び出していった彼がマトリョーシカ片手に電波塔の破壊工作へとしゃれこんだのも、ひどく昔のことのようである。アカシックレコードが示すところ、それは今朝の事象であり、だけど内なる声(※)が強烈に引き止めるので、おとなしく振り上げた凶器をおろした素直な側面を持つ彼でもあった。

 ※それをすると取り返しのつかないことになるぞ!!!!

 →→→生意気な野郎だ!! 内なる声のくせして外界の嫌なことを全て受け止めてやってる俺に逆らうんじゃあないッ!! きさまはいつもいつもそうやって真実ぶってるがきれいな上澄みさらってるだけだとこの際教えてやる。ドブにつかれ! 泥に潜れ! 俺のところまで来て靴を踏め! 三回まわってそして死ね!

 そんなところで、うっかり電波塔の天辺で鉢合わせて茶をしばいた監視バイトの後任者の話をするかい? 世のため夢のため望まぬ労働に甘んじつつ、バンドでクラリネットを吹いてる時だけほんとの己になれるといったぐあいの男子学生の話を。

 しない。

 それもこれも頭の中で無数に膨れ上がった虫の翅音を止めるためにだ。キリウは、電波塔を壊す発想に至らねばならなかったのだ。

 くすんだ白色に輝く空は少し眩しかった。彼はサッシに頭をガンと打ち付けて音感を保ち、あわや爪先を潰すところだった黒い箱を見つめた。そして部屋の中に放った。

 それは或田博士の遺品であり、パルミジャーノん君がブラック企業だか何だかと呼んだゴミ箱である。その黒い社風に頭がかぶれると気が遠くなって、すっきりして、少しの間は白い虫がほとんど見えなくなるという事実が存在する。そこにキリウが気付いたのが、正確にはいつのことであったかは不明だ。どうやら弟のクソまずい手料理と関連があることだけは彼も鮮明に覚えていたが、不思議なことにそれ以外の記憶はあいまいだった。何か悪いものでも食べたのだろうか。

 なんでもいいけどあいつはマジで最後まで料理がうまくならなかった。

 生温かい風に憂うしかないキリウが、弟の重篤な味音痴に気付くことができなかったのはこの世の不幸だった。

 そうしてひととおり湿気を呪ったのち、彼はふと、片付けすぎた部屋の隅に転がってる買い物袋を引っ張り寄せた。中身はパクパク食べれば死に放題の毒劇物、大量の――黒いタバコのパッケージだ。

 開封して一本抜き出しただけなのに、巻紙はやけに甘ったるい香りを漂わせる。店のやつが毎回毎回勝手に寄越すおまけのライターを眺めていたら、キリウは何かを思い出した。そして手の中のものに、パイロキネシスで火をつけた。

 立ち上る熱にすでに嫌な予感を抱きつつ、そっとフィルターを咥えて、見よう見まねで肺に有害ガスを吸入っ、

 すぐにむせ返って咳き込んだ。

 ……あー。

 キリウがこれを買ったのも、ユコが入院していた頃だ。

 彼女の新品の制服は今頃、ジュンの大量の遺品(意味が分かるものが本当に一割も無かった)とともに明日のゴミ収集車を待っているだろう。同じように、これも捨てなければならなかった。渡したかった相手はブチまけてしまったからだ。それでも、ノドを煙で切り刻みながら笑ってるような変態になってはならなかった。

 コンクリートに叩きつけたタバコの火をサンダルで踏み消せ。携帯ラジオのスイッチを入れろ。やけくそな気持ちが消えないうちに。弾ける雨粒のペーハーを受信しろ。バイナリがバイナリじゃなくなる前に。

 三回まわってそして飛べ。

 久々に虫の翅音の混ざらないリクエストアワーを聴きながら、ふとキリウは自分の中から、この街にとどまる気持ちが無くなってしまったことに気付いた。最初こそ気に入って住み着いたはずなのに、旅を続けたいという弟を一人でいかせてまで残ったのに、不思議だった。

 白けた光は、いつの間にか冴え冴えとした空色じみていた。今の彼の目にそう映っただけかもしれない。けれどなんてお天気雨なんだろう。