目が覚めると、彼女は病室にいた。
枕元でモリがアメの包み紙を弄ぶ音が、冷たい静けさの中ではやかましく聴こえた。
ユコと目が合った瞬間、モリはびっくりしたのか、膝の上からアメの入った袋を落としてひっくり返していた。
「ごめん」
ぽけーと謝りながらアメをのんびり拾い集めるモリを見て、蜘蛛がぶら下がってる白い天井を見て、それからユコは自分の右手を見た。五本のうち二本の指と、手のひらから甲まで固く包帯で巻かれていた。だが五本残ってるならどうとでもなるだろう。
モリが足元でペチペチ鳴らしてるスリッパは、いつも見る赤色のものではなかった。モリはすぐ靴をなくすので、ずっと学校から借りパクしたスリッパを履いている。そんなのどうでもいいが、ともかくこれは緑色で、『助けて』という文字が入っていた。
それは、書類上の話?
身体を起こそうとして、そのままベッドからずり落ちかけるまで、彼女は自分の全身がひどく熱っぽいことに気付かなかった。頭が寒気でネジをネジこんでるみたいに痛むせいだ。実際にはそこらかしこの関節が軋み、気持ち悪いくらい汗をかいていたのに。
モリに支えられたまま彼女がようやく周囲を確認すると、同室には他に四つの空のベッドがあった。ユコが寝ていたのは入り口から一番近いところだった。白い壁が実は蜘蛛の糸でできてるんで、あちこち蜘蛛が這ってた。
「オジサンのお見舞い」
回収し終えたアメの袋をユコに見せて、モリがどもりながら言う。環境保護事業が金持ちの道楽だった頃を彷彿とさせる。
「さっきまでいた」
モリが、袋に戻さなかったアメをひとつ開けて口に放り込んだ。それは人間の歯のような形をしていた。
縫合された頭の傷を左手で確認しながら、ユコはぼんやりとした記憶を追っていた。そして、上の歯が一本折れているという事実に気付いた。
「男の子もきてた」
キリウだろうか。
「あと、バイト先ぽいひと。文句言いにきた」
心当たりがあった。
「お医者さん。ユコちゃんに、お金貸してって言ってた。ねてるのに」
そいつか。
彼女はおかしな夢を思い出してしまった。言わされたくないことを全て言わされてなお、もっとおぞましい何かが自分の中に残っているのではないかと疑うしかない、そんな怖気が脳みその芯に残る悪夢だった。
「あんたが死んだら、弟の時と同じくらい悲しんでもらえるとおもう?」
そう言ってアメを差し出してきたモリの顔は、妙にひしゃげていて、誰だかよくわからない。骨みたいにか細い指から、透明な紙に包まれた歯を受け取る。
なんだこれ、とユコは思った。
「モリ」
彼女は呼びかけるわけでもなく友人の名を呟いていた。何かがおかしい気がしたのだ。
ぱき、と音を立ててモリが何かを噛んだ。その手元の袋の中には、ユコに渡してきたものと同じものがたくさん入っていた。誰の歯だろう。
「あんたが死んだら、弟の時と同じくらい悲しんでもらえるとおもう?」
また同じことを言ったモリは、ジグザグしたカエルの顔になっていた。
「あんたが死んだら、弟の時と同じくらい悲しんでもらえるとおもう?」
ユコは叫びたくなった。
まだ夢を見てるのか? モリがこんな長いセンテンスをつっかえずに喋れるわけがない。しかしめちゃくちゃな光景とは裏腹に、なぜだか知らないが彼女は、どこかこの状況を夢だと心から思えずにいた。
その時、病室の扉が勢いよく開き、そこには頭に紙袋をかぶった少年が立っていた。
「」
何か聴き取れない意思が発せられた。彼は無数の黒い触手でできた腕のようなもので、でかいバッタの死骸とダイナマイトの束を抱えている。足早にユコのところにやってくると、荷物を全部取り落としたみたいにベッドに置いた。そして、ユコの手を触手の先でそっと撫でてきた。
いよいよこんなものを見るなんてどうかしていた。
「」
やっぱり何を言ってるかわからなかった。だけど彼はつまりキリウ少年だった。
紙袋の下で何かが水っぽい音を立ててうごめき、青い液体がぼたぼた垂れ、彼の身体もろともユコの手が濡れていく。とても濃い鉄のにおいが漂っていた。青い血なんだ。血が青いんじゃあどうしようもない。
脈打つ黒い両腕に背中を抱かれても、ユコは言葉が出なかった。これが夢か現実か判らなかった。でも、紙袋越しに触れる頬は温かくて、いかれてない方の腕で抱き締め返した。そしたらわけがわからないまま涙がこぼれた。
これ以上いったい何を望んでた?
目を閉じてもう一度開いた時、ユコは布団の上に転がるでかいバッタの死骸が、相変わらずしかめっ面のトランであることに気付いた。キリウが連れてきてくれたのだ。ダイナマイトの束はやっぱりダイナマイトの束だったが。白い壁、白い天井、握り締めたままのアメ玉は薄緑色。
それからすぐ気が遠くなって倒れた。紙袋を破り捨てる音と、小さな育ての親がびっくりしてユコの名前――彼がくれた名前を呼ぶ声を聴いて、死んだように眠った。
で、そんな子供たちを、窓際で若い女を連れ込んでいちゃついてるジジイを除く、三人の患者がちらちら横目で眺めていた。黄ばんだ壁の病室で。