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54.窓際マッドネス

 ある涼やかな昼休み、ぺしゃんこになったテキストの上でユコが目を覚ますと、華奢な知人が一心不乱にユコの手首へとピザカッターを突き立てているところだった。反射的にユコは彼女の腕をつかんで床にひっくり返してしまったが、どうやら彼女はユコの腕時計を切って持って行こうとしていたらしいんで、さらにホッペをつねっておいた。

 そんな度重なるストーカーじみた私物の盗難被害を経て、もはや何度目か分からないが、ユコは脳足りんとの交信のためテレパシーを欲していた。そんなとき、ユコにはこの街が半笑いを浮かべるのが分かる。

「それどうしたの、モリ」

 名前を呼ばれると、引っくり返ったままのグズでノロマな少女モリは、丸い目を三日月型に歪めてむくりと起きあがった。そして暴力的な知人が指した左目の上の痣――暴力的な知人とは無関係――を長い前髪で隠して、ぼそっと答えた。

「三年の裏切りポテト」

 あの腐れまんじゅう。

 裏切りポテトがなぜ裏切りポテトと呼ばれてるのかを知る者は少ない。奴はかつてこの日陰者街第二高校の天辺だか底辺だかにいたとされる孤独な男の、歳の離れたクローンだ。伝聞なんで天辺か底辺か分かんなくなったけど。

 男は、自分が過ごせなかった普通の学生生活をクローンに送ってほしいと思っていたが、荒んだ青春しか知らない男には、健全な青少年を育てる方法が分からなかった。なんとか愛を示すために、男は幼いクローンにチョコレートをしょっちゅう与えた。『チョコレートは目に見えるただひとつの愛』……菓子屋のキャッチコピーを信じて。

 やがてチョコレートを食べすぎてキレやすくなったクローンは、ある日芝刈りのために彼をどかそうとした父親の頭を、その肥え太った腕で叩き割った。その時生まれたのがチョコポテトである。重傷を負った男はそのまま肉屋に買い取られ、後のことはわからない。

 ところで裏切りというのは、のちに彼がチョコレート泥棒で捕まった時に、当時の仲間を売って罪をのがれたから。

 ギブミーチョコレート! アンド血!

 それからユコは、傷だらけになった腕時計のバンドと、ピザカッターの刃に突き破られた皮膚とをじっと見た。腕時計は少し前にゲームセンターで獲った安物であり、確かにバンドが硬くて取り外しが面倒な一品だ。彼女はまだ愛着の湧いてないそれを引きちぎって、モリに渡した。

 彼女は考える。この手元の落書きまみれのテキストが薄赤く染まっている理由を。リンゴの外側が赤くて内側が赤くないのと関係あるのか。今日の夕日は赤いのか。自分がチョコレートではないことを証明するためにはどうすればいいのか。優しい心を持つためにはどうすればいいのか。

 呆けているモリの眼前にテキストを掲げてユコが一言。

「赤い!」

 モリはえんえんとぱちくり瞬きしていたが、やがて嬉しそうに頷いた。ユコにはよく分からなかった。ただ、青かったら明日からどう生きていけばいいんだろうと思っていた……。ついでに自分の血がチョコレートではないことだけ確認するために、傷口を舐めた。

 裏切りポテトのポテトってなに?

 そんなことはどうでもいい。

 今この時、ユコの陰った双眸の奥がおぞましい輝きで満ちていることに気付く者は、モリ以外のどこにもいなかった。ユコが白い壁を見つめながら暇をつぶす方法よりも、裏切りポテトを潰したらチョコが出てくるのかとかを考えてるのだということに関しても。

 モリはそんなユコの前でニヤニヤしていた。

 ユコってみんなには『アイツ』ってよばれてる。『アイツ』は最初、追いはぎだと思われてた。なんでかとゆうとケンカ相手を叩きのめしたあと、パーカーとか制服とか上着を盗んでくことが多いから。盗られた上着はペットの布団にされてるって聞いたけど、お金とかガムを盗られることってないんだ。きっと『アイツ』は天狗にさらわれてきた余所者だから、山伏の服を探してるんだって、みんな言ってた。

 たいていは真っ先にいじめられるモリみたいなどんくさい生徒が、『アイツ』にやられることはなかった。それは不思議でもなんでもなくて、だって『アイツ』はわざと危ない奴に絡んでハシャいでるんだって、B組のニッタが殴られて口の中切れたまま自慢してた。だけどその危ない奴らの中には偶然、モリの指を折ったり金をとったり牛になったり靴をとって妹にやったりするような奴も、たくさんいた。

 なのでモリはユコの私物が欲しかった。

 その時ふと、窓の外から教室の中を見ている何かと目が合ってしまい、モリは気絶しそうになった。

 珍しく機敏に飛びのいたモリに驚いてユコも外を見ると、アメーバ状になったキリウ少年が遠慮がちに窓ガラスの端っこにへばりついていた。青くてびよびよした透明な身体に、ふたつのぎょろぎょろした赤い目玉が埋まっている。

 日の光を浴びてなんだか綺麗だとユコは思ったが、固まってるモリをよそに窓を開けてやると、彼は人間の形に戻ってしまった。そしてなまっちろい腕でサッシにしがみついて、上着のポッケから取り出したきんちゃく袋をユコに渡した。

「ごメーバ。オヤっさんが、これ……」

「ああ、アメーバってそうやって謝るんだ……」

 オヤっさん。そう、名義貸しの老人だ。ユコとキリウは書類上、その老人の子供であり、兄妹……あるいは姉弟ということになっているはずだ。名義貸しというのはこの街で時折見かける存在であるが、彼らの多くは、どういうわけか身寄りのない子供たちの書類上の親となることを趣味としている。なんの実入りもなく、名義を悪用されることすらあるのに彼らがそれをしてしまうのは、ひとえに寂しさのためだ。

 名義だけでも誰かと繋がりたい。そんな気持ちだとユコはその人から聞いたことがあった。時折顔を出すと彼はとても喜んで、ユコとキリウにアメ玉をたくさんくれた。『アメ玉は目に見えるただひとつの愛』……菓子屋のキャッチコピーをパクって。ユコは半分くらいそれを信じていた。

 こそこそ話してはいたが、モリを含むこのへんの生徒のほとんどは二人を凝視していた。窓の外のアレは、たまに電柱とか屋根の上を走ってることで有名な天狗ではないかと。彼にまつわるまことしやかなゴシップは多い。歳をとらないとか、ヒトではないとか、どちらかと言うと甲殻類に近いとか、塩をかけると溶けるとか、頭にカスタードクリームが詰まってるとか、実在しないとか、臓器はもちろん血や肉まで売り飛ばす極悪非道の借金取りだとか……。

 その天狗はユコと話を終えると、この世の全てから手を離して落ちてった。下の植え込みがバキバキ折れる音がした。

 一方ユコは憑き物が落ちたかのような顔をして、受け取ったきんちゃく袋を学ランの内ポケットへ大切そうにしまっていた。それはいつ盗った制服だろう。相変わらず呆けたままそんなことを思ったついでに、モリはユコのペンケースから小さなサイコロを抜き取った。脳みその空洞でサイコロがコロコロしました。