雑な焼き魚を幸せそうに食ってるコランダミーをよそに、ジュン少年は向こうの電波塔を見上げていた。
「ねージュンちゃん」
「なにミーちゃん」
「なんでもない」
「そう……」
魚はちょっとした貴重品だ。水地形から離れたところでは実物を知らない人も多い。時にはその存在すらも。
詳細は伏すが、二人は大きな湖のほとりにいた。そしてジュンは白いコンクリートで固められた桟橋に座り込んで釣りをしていた。水面に反射する空へ糸を垂らした釣竿の頂点では、彼らにしか認識できない蝶が羽を休めている。手前の方で魚たちを隠すようにひしめく浮き草のどれだけが実在しているのかも定かではない。
だがそんなことはどうでもいい。あんたもその目に映るセカイで生きてんだから……テレパシーを放つと、ジュンはこちらを指さすのをやめて空を仰いだ。美しい晴天を巨大な円柱がゆっくり横切ってく。そしてこことほとんど距離のない街の礼拝堂地下に仕掛けられた爆弾のことを考えた。
彼は合図を待っていた。傍らに放ってあるおもちゃみたいなリモコンとトランシーバーを見つめて、虚空へ呟いた。
「電波塔に近い街ほど発展する法則」
固形燃料の炎の上で鍋の中身をかき回していたコランダミーは、自分が話しかけられたのかと思って首を振った。実際はどうであるか不明。彼女が何かを探してきょろきょろしていたので、ジュンは彼女の鞄の中から香辛料のかたまりを取り出して放ってやった。
「意味なんかない。ぼくが考えた」
「そうなの?」
コランダミーはグロテスクな魚みたいなものを煮ていた。先ほど二人がかりで釣り上げたやつだ。彼女はぐつぐつ言ってる液体の中へ香辛料を入れようとして、けれどいくらか逡巡してそれはやめて、今度は小さなマナ板の上にハーモニ科野菜を置いて切り始めた。
ああ……ナイフの刃との摩擦で、ハーモニ科野菜特有の金属音が響く。センチメンタルかつノスタルジックなイメージを刷り込まれたこの響き。ハーモニ科野菜は金属色素に富む硬質な果肉を持ち、病害虫に強い露地作物だよ。あまり手をかけなくてもそれなりのものになるけれど、ギリギリの水管理とまめな追肥を行うことで、すばらしい光沢を持つ果実をみのらせる。発達しきった果実から細長い種を抜いて、笛を作る草遊びが有名だ。ジュンも小さな頃、その笛を練習した覚えがある。
ある程度は火を通さなきゃならない野菜をあまり後から鍋に入れるのはよくない、とジュンは思った。思ったが言わなかった。
魚と釣り人の昼食を狙って羽ばたく大きな鳥の鳴き声が、頭上で響く。浅瀬の水底では、飛び込んでくる鳥を狙って肉食水棲生物が捕食器官を伸ばしている。その横で、マイペースな甲殻類が特に狙いもなく無駄な機構を駆使して跳ねる。
一方、百メートルくらい向こうの水際では、ヒトみたいな動物が個体数調整のために覚悟をキメてる最中だった。ジュンは全てを忘却の彼方に置いてそいつをぼんやり眺めていたせいで、揺れるロッドの先端から蝶が飛び立ったことに気付くのが遅れた。とっくに手応えのない釣り糸を巻き取る。次を振り込む気は起きなかった。
合図が来ない。
もうしばらくすると、頃合いを大幅に過ぎて煮詰まった鍋の中身をコランダミーが器にとって、ジュンに差し出してきた。ぐずぐずになった魚の身の間から骨が突き出ている。香辛料と油のにおいが全てを覆い隠してるようだが、かすかにガソリンの気配がするのは気のせいだろうか……。
気のせいだと思ってジュンは食べてみたが、気のせいではないことが判明しただけだった。物言わぬジュンの様子に不安をおぼえたコランダミーも、おたまに直接口をつけて叫んだ。
「わー!」
センチメンタルかつノスタルジックな風味とともに、頭の空洞いっぱいに広がるガソリン臭さ! タバコを吸えば爆発できるだろう。コランダミーは分かってるんだか分かってないんだかよく分かってなさそうなふうだったが、それでも自分が作り上げてしまったものの凄まじさは理解できたらしく、肩をすくめる。
「いや、この芸術は味付けの問題じゃないね。そうだろ」
ジュンがむせそうなのを隠し切れない口調で言って、涙目しながら鍋の中を改めると、ぐったりとろけた無色の液状生命体が出てきた。透き通った風貌は二人が見ているセカイの住人を彷彿とさせる。こいつは胴体が一部の植物アルカロイドと反応してガソリン臭を発するのだが、そんなことは彼らの知ることではない。
少年は隣のコランダミーを見たものの、彼女はまったく心当たりがないでヤンスといった顔をして首を振っていた。つまりこいつは単なる死骸であり、食材ではないということになる。どたばた楽しく調理しているうちに、どこからかこいつが混入してしまったことに、二人とも気付かなかったのだろう。
「ごめんねごめんね」
「謝んなくていいよ。作ってくれたのに」
でもハーモニ科野菜は先に入れてくれとジュンが付け加えたから、コランダミーは顔をポッと赤くした。なんでだ。ついでに上空から降りてきた大きな鳥が、ガソリン臭い液状生命体の死骸をかっさらっていった。どうやら実在する生物だったらしい……。
そして相も変わらず合図は来ない。そんなものだ。向こう岸で若いフィッシャーマンが、横からヌッと現れた八十本脚の甲殻類に驚いて湖に落ちた。ジュンはトランシーバーを桟橋に叩きつけると靴のカカトで粉砕して、リモコンは危ないから分解して、全ての欠片を水中へ蹴り落とした。こんなことしなくても、夕飯も魚を食えばいい。